【感想?】演劇「1999年の夏休みepisode0」

 先日、演劇「1999年の夏休みepisode 0」を観劇した。

1999年の夏休み episode0

【あらすじ】

山と森に囲まれ、世間から隔絶された全寮制の学院に、少女のように美しい少年たちが共同生活をしている。

初夏のある夜、その中の一人、悠が崖から湖に身投げして死んだ…。夏休みになって、帰る所がなく寮に残ったのは三人。自分を愛していた悠の自殺に自責の念にかられている和彦。和彦に対して深い思いやりで接しているリーダー格の直人。そして和彦の悠に対する想いに強い嫉妬を抱いている下級生の則夫。

ある日、悠と瓜二つの転入生・薫が三人の前に現れた。薫の中に悠の面影を見て混乱し動揺する三人。

そして彼らの関係性は奇妙な方向にねじ曲がっていく…。

 人が人を想うこと、思春期の息苦しさ、閉じた人間関係の窮屈さ。客席で身じろぎでもしようものなら空気が壊れてしまうのではないかと思ってしまうくらい繊細な空間で体感した一つの夏は、とても複雑で、どこかおそろしさがあって、そして美しかった。

 

 ひとつ、疑問に感じたことがある。「1999年の夏休み」とタイトルが付けられ、同性同士の関係性が描かれていたこの作品の舞台は、果たして1999年なのだろうか。
 則夫は直人に食事の用意ができたことを知らせる。端末をタッチパネルで操作して送信されたメッセージは、「ピコン」と聞き覚えのある音を立てて直人の手元に届く。直人は、スマートフォンでメッセージを確認して、和彦を朝食の席に連れ出す。母親と通話をするシーンで薫は、 iPhoneの画面を見ながら母親に話しかけ、テレビ通話のような使い方をしている。
 このように、登場人物たちがスマートフォンを利用している描写は、あちこちに見て取れる。1999年の携帯電話の普及率は44%ほどだ。ここで言う「携帯電話」は主にガラパゴス携帯やPHSを指すから、1999年が作品の舞台になっているならば、中学生である則夫や薫、直人が全員スマートフォンを持っているというのは不自然だ。「1999年」とタイトルで作品の時間軸がはっきりと示されている作品において、時代を大きく反映する小道具の選択を誤るとは思えない。そうであるとすれば、「1999年の夏休み」という作品の舞台は、1999年ではなく、""現代"" と考えるべきではないか。
 1999年と今とでは、社会が大きく変化している。
 スマートフォンどころか携帯電話すら今のようには普及していなかった1999年、少年達は、寮生活を始めてしまえば、外部との連絡手段がほとんど無くなってしまったはずだ。今ならSNSで外とつながりを持ち続けることができるが、携帯電話もなく街にも許可がなければ下りられないとなると、少年達の世界は彼らと少しの大人だけで完結する。1999年がこの作品の舞台であれば、私は、閉じた世界の息苦しさと多感な思春期の息苦しさが彼らを「倒錯的な関係に走らせた」のだと解釈したかもしれない。
 2020年現在。インターネットの発展によって、どこにいても情報を得ることが可能になった。自分から求めさえすれば、異なる世代や立場の人の意見に触れることもできる。変化したのは情報へのアクセスの難易度だけではない。セクシャリティに関する考え方も大きく変わってきている。同性愛と異性愛には何の違いもないという認識が広く共有されるようになった。2015年には日本で初めてパートナーシップ制度が採用され、同性同士でも人生を共に歩む道が生まれつつある街もある。

法は未だに、同性婚に対して異性婚と同等の権利を認めていない。変えなければならないことは山ほどある。まだまだ世間には誤解が根強く残っているだろうし、私も不勉強で、気付かぬうちに誰かを差別しているかもしれない。それでも、今の私は、異性愛と違った関係が描かれていたことだけを取り出して「倒錯的だ」と表現しようとは思わない。この作品で描かれていたのは人間同士の普遍的な「愛」だ。
 「1999年の夏休み」。20年以上昔の話のはずなのに古くささを全く感じなかった。それは、この作品が普遍的な価値観を描いているからなのでであろうし、この作品に取り組んだ座組が、現代的な感覚でもって作品作りに取り組んでいたからなのだろう。面白かった。