愛すべき虚構

大人の「ごっこ遊び」

 ネルケプランニングが企画制作している舞台シリーズ「アイドルステージ」。私はそれに登場する宇宙人アイドル・CHaCK-UPが好きです。

Q.アイドルステージってどういうものなんですか?

A.一部にてアイドルグループ結成〜団結のお芝居を、 二部にて、本格的なアイドルライブを上演するシリーズです。

チケット一般発売明日10時より!&「Q&A」更新! - プレゼント◆5 OFFICIAL BLOG

 

 このシリーズでは、AW(アナザーワールド)というシステムが採用されています。AWとは、作品内のアイドルが現実に存在している世界線のこと。

Q.パンフやブログに出演者の名前がないのですが…。

A.アイドルステージ「プレゼント◆5」には、 “舞台にてキャラクターを演じる出演者”という観点はございません(公演概要ページ等、例外あり)。 作品内のアイドルたちは「現実に存在している」前提のもと、 舞台における二部のライブ、Twitterやブログなどを公開させていただいております。 大人の「ごっこ遊び」を、出演者の皆様と共にお楽しみいただけますと幸いです。

チケット一般発売明日10時より!&「Q&A」更新! - プレゼント◆5 OFFICIAL BLOG

 現実の世界では、役者である古谷大和さんが天王星人☆レイを演じていますが、AWでの彼は天王星人☆レイの友達という設定で「ごっこ遊び」をしています。古谷さんは、レイ様の「お友達」としてCHaCK-UPのライブに足を運び、客席からCHaCK-UPにペンライトを振っている。ということになっている。

古谷 大和 on Twitter: "そして、こちらが僕の友達
天王星人のレイくん。

 

 だから私もCHaCK-UPの話をするときは、「AWの私」という設定を作り、ごっこ遊びに興じることにしました。ちなみに「AWの私」は、天宮王成=天王星人レイの可能性を頑なに見ないふりをきて、宇宙人の実在を信仰しています。

 つまり、これから書くことは、CHaCK-UPというアイドルが存在し、私が天王星人☆レイを推しているということを除いて全てフィクションです。

 

AWの私と天王星人☆レイ  

 小学生の頃、私は、影で「宇宙人」と呼ばれていた。友達はいなかった。みんなが私を遠巻きにして、ひそひそと何事かを囁いた。いじめられていたわけではないと思う。少なくとも、後ろの席に座っていたみゆちゃんは、私からプリントを渡されることを拒否しなかった。給食の配膳だってさせてもらえた。グループワークで机をくっつけるときに微妙な空間ができたことはないし、バイ菌扱いされたことだってない。私がまとめたノートは大人気で、クラスでいちばんかっこよかったしょうくんはいつも私に「宿題のプリント見せて」とねだった。けれど、休み時間にドッジボールに誘われることはなかった。かわいいメモ帳を折って作った手紙をくすくすと笑いながら交わし合うことも。だから私は、休み時間になると必ず、引き出しの中から本を取り出してページを捲った。SFが好きだった。小説の中に描かれた宇宙人は、時に地球人を凌駕する知性で人類を翻弄し、時に人間と種族を超えた友情を築く。周囲が私を「宇宙人」と呼ぶならば、私は優れた知性を持っているのかもしれない。私が「宇宙人」であったとしても、いつか私を理解してくれる人が現れるかもしれない――。

 中学、高校、大学。年を重ねるごとに社会性が身について友達もできた。人間関係は相互の歩み寄りだと知った。ひっつめていた髪の毛に縮毛矯正をかけて、コンタクトを買った。もう「宇宙人」と呼ばれることはなかった。SFもあまり読まなくなった。一緒の時間を過ごす友達が出来た。好きな人の話ではしゃいで、部活にも打ち込んだ。だから、小説は読まなくてもよかった。

 大学院に進学することにした私は、上京することにした。2015年1月。春から住むアパートの内見に来て、せっかくだから東京でしかできないことをしたいと思ってふらりと立ち寄った劇場で、衝撃的な出会いを果たす。忘れもしない新宿サザンシアター。そこに、宇宙人がいたのだ。

 宇宙人アイドルを名乗る6人は、日本人の男性と同じ容姿をしていた。宇宙服のような衣装を纏い、ピコピコとした楽曲を歌い踊っている。

 グループ名をCHaCK-UPと名乗った彼らは、太陽系の惑星出身であるという。グループのキャプテンである天王星人☆レイは天王星の王族で、王族としての暮らしに飽きて星を飛び出し、各惑星からシャトルクルーを集めてCHaCK-UPを結成したのだそうだ。日本人男性の容姿をしているのは、彼らが地球に来た際に、地球環境に適応するために「地球適応型スーツ」を着用しているからだという。合い言葉は「背中のチャックは開けないで」。宇宙服を模した衣装の背中には大きなチャックがあり、そこを開くと宇宙人の本体がいる。

 それまで私はアイドルのコンサートに行ったことなど一度もなかった。けれど、アイドルが好きな友達の話を聞いて想像してみたことはある。想像の中のコンサートは、数千人が入る大きなホールの中で華やかな照明と衣装できらきらしくショーアップされたアイドルが、輝く笑顔を振りまくものだ。私の目の前で行われているライブはそんな想像よりもずっとこじんまりとしていた。でも、目が離せなかった。会場には妙な一体感がある。左隣に座る見知らぬ女性は街中で見たことがないくらい鮮やかな黄色を纏っていて、彼女が持つ6本のペンライトはCHaCK-UPの振り付けをコピーするように複雑怪奇に動く。

 短い時間のスペーストリップーー彼らはライブをそう呼ぶーーは、あっという間に終わってしまった。最後に、アイドルたちがお見送りをしてくれるという。よくわからないまま係員の案内にしたがって席を立つと、廊下を少し進んだところにキャプテンレイが立っていた。後方からステージを眺めていたときも端正な印象を持っていたけれど、近くで見るとすさまじく美しい。一歩前に進む。目の前に立つ。宇宙人と目があった。思わず「好き」と口から零れた。彼は「私もだ」と穏やかに微笑んだ。

 

 宇宙人は存在したのだ。

 

 子供の頃、寂しさを紛らわすために信じていた宇宙人は実在していた。彼らは日本で地球人を幸せにするためにライブをしている。彼らの存在をこの目で見ることができる。彼らの歌に合わせてコールをすることができる。彼らの生態を知ることができる。美しくて、ちょっとお茶目でたくさんの人から愛される「宇宙人」がたしかに存在している。彼らと言葉を交わすことだってできる。宇宙人は存在した!!  

 私は、初めて目があった宇宙人をレイ様と呼んで「推す」ことにした。「推す」といってもSNSで呟くことはしなかったし、情報を積極的に集めることもしなかった。CHaCK-UPに魅了されたファンを「チャーム」と呼ぶが、チャームの友達を作ることもしなかった。ファンレターも書いたことがない。ただライブに行ってペンライトを振った。  

 レイ様は、上に立つ者特有の不遜さと穏やかさが共存している不思議な人だった。ゆったりとした声で地球人からしたらボケてるとしか思えないことを真面目に語る。ツッコミ不在のMCは混沌に包まれていた。パフォーマンスをしているときの彼はときたま無邪気な笑顔を浮かべていて、昭和の歌謡曲のようなソロ曲で「惚れた女には意外と弱いぜ」と鼻にかかった甘い声で歌うから、ときめけばいいのか面白くなればいいのかいつも分からなかった。全部がたまらなかった。私の世界は、私とレイ様で完結していた。こうして余計なことを知らずにいれば、宇宙人は私の中で永遠に存在し続ける。  

 2018年2月。CHaCK-UPが所属する芸能事務所であるアーストライアル社のアイドルたちが、バレンタインにライブを行うという。私はいてもたってもいられずに、うちわを新調して白い単色ペンライトを買い、そして、白い服を買い漁った。その公演の最終日、物販列に並びながら一つの予感が胸をよぎった。レイ様に会えるのはこれが最後になるのではないか。  

 その頃、CHaCK-UPの活動が減り、彼らの後輩である準惑星アイドルたちが活動の幅を広げていた。メンバーが全員揃っている姿を見ることはなくなり、ライブに参加する宇宙人も一人、また一人と減っていた。そろそろ地球から離れてしまうのかもしれない。そんな不安を胸にお見送りの列に並ぶ。レイ様の前に立つ。「また会えますか?」と聞くと、彼女はーーレイ様はバレンタインに女心を理解するべく女装をしていた。そういう突拍子もない発想が宇宙人じみていて好きだーー、「もちろんよ」と微笑んだ。

 あれから4年が経った2月。シャトルクルーであるヴィーとヘルプクルーのポミィが地球を訪れた。彼らはライブでレイ様から預かった手紙を朗読してくれた。そこに書き記された言葉は穏やかでどことなく気品があって、まさしくレイ様が書いたものだった。私はうれしくなって手紙を書いた。宇宙に手紙を送る術を持たないから、レイ様と顔のよく似たお友達に託した。どうやらレイ様に渡してくれたようだった。うれしかった。宇宙人である彼に宛てて手紙を書くとき、私はこれまでよりも強く宇宙人の存在を感じた。地球に降る雪は天王星と同じものなのだろうか。レイ様は日本の春をどう感じるんだろう。私はレイ様のことを何も知らなかった。当たり前だ。彼は宇宙人なのだから!!  

 CHaCK-UPとレイ様は、今日もどこかで誰かを幸せにするためにスペーストリップをしているはずだ。たとえ彼らが地球を離れたとしても、私がレイ様を好きなことは変わらない。スペーストリップが行われなかった4年間でも宇宙人の実在を信じ続けてきたように、これから先も信じるだけだ。  

 私は再びSFを手に取った。空想科学は、大好きな彼がどんな世界を見てるのかを想像させてくれる。銀河のどこかで、かつて地球でスペーストリップをしていたことを思い出してくれるだろうか。

 宇宙人に出会った頃には大学生だった私も、社会に出て仕事についた。仕事は面白くないわけではないがつらい。帰り道、ふと夜空を見上げると星が瞬いている。何かが始まる予感がする。 

「CHaCK-UP~銀河伝説~」-CHaCK-UP - YouTubeyoutu.be

【感想】責任の所在ーー劇団た組「ぽに」

 アスレチックのようなロープの遊具に、円の中に散らばったカラフルなおもちゃ。二つの大きなロープの遊具の反対側には二つのブランコが天井から吊されている。スーパーに設置された子供も遊び場のような舞台の中で、藤原季節さんが演じる誠也が客席に向かってぺこぺこと頭を下げながらズボンを下ろす。そうして始まった劇で最初に聞く会話は、松本穂香さん演じる円佳に中出しをしたということだった。

 大学を卒業したばかりの円佳は、オペア留学という制度で留学しようとしているが、研修の一貫であるベビーシッターのアルバイトはいつまで経っても終わらない。留学の斡旋会社に40万円を払っているけれど、留学の話が進む気配もない。会社の担当者のおじさんはどことなくうさんくさい。

 そんな男のセフレになってちゃダメだよとか。どうせ本命にはなれないよ、とか。その生活状況で妊娠しちゃったら本当に苦労するからせめて避妊だけはしなよ、とか。その会社怪しいよ、本当に留学行けるの、とか。とか、とか。「うわあ」と思ってしまう生々しいやりとりを客席から見続けるしかできない時間を過ごしたあと、ぽんと「ぽに」が現れる。「ぽに」は、ぽにが付いた人に子供が出来たとき、その子供を連れ去ってしまうのだと言う。腐った足を引きずって歩くぽには、円佳がベビーシッターとして面倒を見ていた子供であるれんが43歳になった姿である。ぽには、円佳の話を聞きながら、私が言いたくても言えなかったことをぽんぽん言う。その話し方は軽妙で、ぽにになっている状況に対する深刻さはなく、なんとなく愛嬌を感じすらする。

 ぽにが来た人は除霊を受けなければならないという慣習があるようで、円佳もマンションの一室の霊媒師を訪れて、本当に効くのかも分からない除霊を受けた。9対1で成功するし、成功すれば失明する。同席しているぽに(しかし円佳以外には見えない)は、ふざけているようにも見える除霊に戸惑うばかり。効いているようには見えないけれど、除霊のために入れと言われた場所から出てきた円佳の目には、失明の兆しを象徴するようにバンダナが巻かれている。

 舞台のテーマは、“仕事とお金と責任の範囲“であるという。

 43歳のれんが「ぽに」として円佳の元に現れたのは、円佳がベビーシッターとして働いている最中に地震が起きて、れんの住むマンションが火災で燃えたことが発端だった。避難所にあぶれ、コンビニでご飯も変えなかった円佳は、れんがだだを捏ねるのに耐えかねて、置き去りにしてしまう。行方不明で生死不明のれん。「ぽに」は母親の元に現れることが多いにも関わらず、円佳の元に現れる。

 円佳のベビーシッターの時給は1000円で、きっと彼女は保育の資格をもっていないだろう。会社はシッターに保険をかけていないし、時間延長の手続きもなあなあに行われている。れんの両親は、地震が起きてマンションが火災で燃えても、すぐに帰るための努力を欠いているように見える。ベビーシッター延長の手続きもせず、きっと円佳にホテル代を振り込んだりもしていない。円佳に支払われる時給が1000円なのだから、シッター代もそれなりなのだろう。

 

 法律的な責任は、裁判をやればどこかの段階で裁判所が決める。では、道徳的な「責任」とは?世間は、事件や事故が起こったとき「責任を取れ」とか「誠意を見せろ」と言うが、一体何が求められているのだろう。

 れんを置き去りにしてぽにが来た円佳はお祓いでぽにを払い、その対価として失明してしまう。最後に誰もいないブランコが動き出すのは、命が宿ったことの暗示だとすれば、避妊をしない性交渉を拒まなかった責任としておそらくは妊娠してしまっている。円佳が一番悪いのはもちろんだけど、円佳だけが悪いとも思えないような状況で、円佳だけが大きな代償を払っている。私は重すぎると思う。世間は円佳が十分に責任を果たしたと思うだろうか。

 責任の象徴であるとも考えられる「ぽに」は、観客であるわたしたちの前では愛嬌があるようにも親しみやすいようにも見える。誠也と円佳の芝居っぽくない日常の延長のような会話を見て苛立たしさを抱くから、ぽにがその関係の歪さやだらしなさに切り込むと「よく言った!」と感じてしまう気持ちよさがある。それがどうにも恐ろしい。ぽにが責任の象徴なのだとして、その象徴は、これからの苦しみを予感させるような重々しい顔をしていない。

 この作品で描かれていたのは、どこかで起こっていてもおかしくないことで、時間だけがじりじりと進行する息苦しさがあった。誰もが認める「めでたしめでたし」を迎えないことも、劇的な台詞や、人々を感動させる感情のやりとりがないことも、あまりに現実だった。「ぽに」という得体のしれないモノが存在しているのに現実と地続きなのが不気味だ。

 終演後、丸く閉じた舞台を見下ろしながら、私は自分に課された責任を思い出した。

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【感想】ナイコン12人東京Bチーム

 ナイコン12人の夏が来た。去年の東京ABチームを観て、今年は大阪東京ABを観た。どれもとても好きだったけれど、東京Bチーム千秋楽が一番印象的だったので、主にその感想を書く。

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 父親を殺したという罪で刑事裁判にかけられた少年が有罪であるか無罪であるかを、12人の陪審員たちが真夏の評議室の中で議論するというストーリー。最初の評決では、陪審員8号を除く11人が少年の有罪を主張する。これに対して陪審員8号は、粘り強く「話し合いましょう」と説得を続ける。孤軍奮闘の8号の勇気に心を打たれた老人の陪審員である9号が無罪に票を投じると、早く帰りたがっていた陪審員たちは次第に話し合いに参加しはじめ、議論の中で陪審員たちの心の中に合理的な疑問が生じていく。最後まで有罪を主張していた陪審員3号が、自らが裏切られた子供と被告人を重ねて「クソガキは全員死ねばいい」と思っていたことに気づくと無罪に票を投じ、全員一致で被告人が無罪となるという流れだ。

 有罪派の陪審員たちは、クーラーが動かない部屋に閉じ込められているのに辟易としていた。3号は関西弁の声がでかいおっさんで、無罪を主張する8号に「気でも狂ったか」とまくしたてる。10号は健康系の仕事で荒稼ぎしている都会的な印象のある若い男。真夏に風邪を引いている。彼は誰かが何かを言うたびに口をはさんでは議論の進行を妨げるし、スラム出身の人間に強い偏見を持っている。7号はヤカラといった雰囲気の若者。議論の行方なんてどうでもいいと思っている。これらの人々が議論をひっかきまわし、場を荒らしていく。

 その中で、陪審員4号は、有罪派の中で最も論理的な人物だ。8号の主張に対して意見を述べる4号の理論は整然としていて、説得力がある。Bチームの横井4号は、人とコミュニケーションを取ろうと努力している様子があった。去年観たナイコン12人や今年のAチームの4号はつんとしている印象があったから新鮮だ。3号に新聞を読んでいるのかと話しかけられた4号は、一言だけ返して会話をぶったぎった後、とりなすように3号に向き直って会話を再開する。全員をまとめるのに嫌気がさした1号をフォローするかのように、1号の肩に手を置いて何かを話したりもしていた。自分の意見の根拠を述べるときも、時には机に手をついて前のめりになりながら、時には評議室の中を歩き回って陪審員一人ひとりと目を合わせながら話す。Aチームの4号が、正しい理屈を提示することに重きを置いているとすると、Bチームの4号は、他の陪審員たちの理解を重視しているようだった。自分の話を遮られて苛立ちを露わにする様子も人間らしく、4号にはなんだか好感が持てる。

 対して、8号は頑固者の変人という印象だった。背を丸めた8号の声はざらついていて、陰鬱な雰囲気が感じられる。議論を進めようと仕切り役を務める1号が、「子供みたい」と言われてキレているとき、8号は、テーブルの反対側で起きていることなどおかまいなしといったふうに屈伸運動をしたりもしている。4号が言葉をかみ砕くように話すのと比較すると、8号は、自分の意見をまくしたてているだけのようでもある。犯行に使われた凶器に議題を絞ることになったときに笑顔を見せるのも、場に不釣り合いな気がした。4号に親しみが持てる分、寄り添うことが難しい8号でもあった。

 これはかなり面白いな、と思った。何回か見て議論の終着点を知っているので、8号の言動を正しいと思いがちだし、一人戦う8号はヒーローにも見えそうである。実際、Aチームを観ているときは、8号を応援するような気持ちで見ている。有罪派の意見に懐疑的にもなる。でもBチームだと、4号に肩入れして、8号に反感を覚えた。俺は個人的な感情を抜きで意見を言っているのだと声高に主張する3号に冷ややかな気持ちを持っていたのに、誰が発言したかによってその意見の重みや意味合いを違ったものとして受け止めている自分に気づく。「個人的な感情を抜きに」物事を考えることの難しさを知った思いだ。

 

 本作は、3号、7号、10号が嫌われないように演出されているようである。3号は、被告人と自分の息子を同一視して、自分を裏切った息子が許せないがために被告人の死刑を願う男。7号は、場を引っかき回して議論を混乱させる若者。10号はひどい偏見の持ち主だ。

 Bチームの3号は、関西弁の気さくさがあり、にっと笑った顔に愛嬌がある。大声で怒鳴ってまくし立てる姿を前にすると顔を顰めたくなるが、中小企業の社長としてはやり手そうでもある。自分がカッとなりやすい性質であることを十分に自覚していて、5号にキレた後は背を丸めて「あんたは立派や」とフォローの声を掛けた。私だったらほだされてしまっただろうなと思う。しつけとして子供を殴ることは刑事罰の対象となるし、厳罰化もされている。そういう世の中で息子を殴って男にしてやったのだと豪語する3号はやはり好きにはなれないし、3号の息子は3号と和解する必要もないと思う。けれど、写真を拾い集めてうずくまる姿があまりに哀れで、自業自得だと切って捨てることができない。

 7号は、無罪に意見を変えたとき、11号から今まで議論に真面目に参加していなかったのにどうして今無罪に変えたのかと問われる。Bチームの7号は幼く見えるので、原作にはない「大人の仲間になりたいのなら理由を言え」という11号の台詞がしっくりくる。問い続けられ過呼吸になりかけるまで追い詰められた7号は「疑問があるから」と答える。11号との問答が終わっても7号は動けない。そんな中で1号が「評決を」と話を進めると、6号が「ちょっと」と制止し、床に落ちた7号のシャツを拾って7号の座席の椅子を引いた。1号は「失礼」と短く返す。千秋楽で見たその短いやりとりがとても良かった。6号は、7号が老人である9号を侮辱するたびに叱っていたし、1号は7号の茶々で議論の進行が妨げられるたびにうんざりとしていた。7号に対して不快感を示していた2人である。だから、6号の行動は、7号を大人の世界に迎え入れることを象徴しているように思えた。自分の意見を言わないでのらりくらりと過ごしてきた若者が成長した瞬間に立ち会ったようでぐっときた*1

 Bチーム10号は、今時な雰囲気を持つ人だった。序盤、議論を遮る振る舞いが目立つが、明瞭な話し方は学歴の高さを感じさせる。4号に親近感を持っているのか、4号が話すたびに頷いたり、4号が映画の名前を思い出せずに窮地に陥ったときは「まあまあ」と口を動かし、フォローするような様子を見せたりしていた。

有罪派が10号を含めて3人になって形成が逆転したとき、10号がスラム街出身者への偏見をまくし立てる。聞くに堪えない言葉に、陪審員たちは一人、また一人と席を立ち、10号に背を向けて無言の抗議をする。10号の言葉に、次第に縋るような弱さが顕れてくるのがよかった。

 10号のそれまでの振る舞いで、「偏見が強いところがあるけど友達になれそうだな」と思っていた。ちょっとした冗談を提供してくれる気さくさやちゃきちゃきした話し方は、時と場合によっては好感が持てるかもしれない。その彼が、自ら信じていたものを非難され、強い抗議を受けていた。ひどく動揺していた。去年観たときは10号が非難を受けるのは当然だと思っていたし、自分とは最も遠い理解できない人物だと思っていたけれど、今年のBチーム10号はどこか身近さがあって、追い詰められた彼の気持ちも理解できるような気がしてしまう。4号が「黙れ」と10号の言葉を封じるとき、言いたいことは分かったと10号に寄り添うような言葉を掛ける。机を強くたたくこともしないし、大きな声を上げることもない4号は、偏見にとらわれる10号を哀れんでいるようにも見える。

 今年の12人の怒れる男は、強い偏見を持つ3号10号に親しみを抱き、愚かな他人と切って捨てることができなかった。陪審員は、他の陪審員たちと人間関係を持たない。だから彼らは、3号や10号、7号に対して厳しい対応ができるのだと思う。3号が私の上司だったら顔色を窺ってしまうし、10号や7号が友達だったら彼らをいさめることができないだろう。同じように、私が非難されるべき偏見を抱えていたとしても、友人や職場の人々はきっと指摘をしてくれない。

 全ての人間が偏見を持っているという。私が非難されるべき偏見を無意識に抱えているとしたら、そしてそれが言葉や態度で表に出てしまったら、自分で気付くことができるだろうか。

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*1:7号と11号のやりとりのあとに12号がジャケットを脱いでいるのもよかった…。自分の意見を持てないでいる12号が歯がゆかったので、青年の成長に胸打たれて意見を持つことを決めたように思えた

【感想】舞台『12人の怒れる男』大阪公演

ナイスコンプレックス プロデュース公演 第6弾 『12人の怒れる男
原作:レジナルド・ローズ
脚色/演出:キムラ真

会場:大阪市立芸術創造館

 

<あらすじ>

舞台は陪審員室。部屋には陪審員の12人の男たち。

父親殺しの罪で裁判にかけられた16歳の少年は、有罪が確定すると死刑が待っている。

この審議に12人中11人が有罪で一致しているところ、陪審員8番が無罪を主張する。人の命を左右することに疑問を持った8番は、議論することを提案したのだった・・・

YAhHoo!!!!:ナイスコンプレックスWEB

 開演すると照明が落ち、場内が暗闇に包まれる。目が慣れず何も見えないところに裁判長の声が朗々と響く。これから議論する内容の重さがずっしりと観客にのしかかるなか、テーブルに薄らと照明が当たり、舞台が示される。

 丸いテーブルを囲う12脚の椅子、給水所として置かれている水のタンク。舞台セットはとてもシンプルだ。

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※撮影OKだった写真

 

ところで去年の東京Aチームの7号

NP5_12人の怒れる男:ナイスコンプレックスWEB

 去年。初めて観たナイコン12人は、私にとって7号と3号の話だった。陪審員たちはこの裁判で出会い、お互いに名前を知ることがないまま議論を重ねる。12人は12通りの性格をしていて、議論の本筋以外でもぶつかり合い、人間関係が生まれる。3号は、昔、自分の息子を殴って男にしてやったと言うが、息子はそれから家を出てしまい10年ほど音信不通だ。被告人である少年と息子を重ねて、親に歯向かう息子は死刑になればいいと思っている。対して7号はナイターの試合に意識が向いていて議論はどうでもいいと思っている。7号も被告人の少年と同じく、父親に殴られて育てられた過去があるようだった。

 序盤。3号が大声で何かを主張する度に、口端を歪めて曖昧な笑みを浮かべる7号が印象的だった。笑おうとして失敗したような。「俺はおやじに殴られたりしたけれど恨んだりはしていない」という台詞を言葉通りに受け取れば、7番と父親の関係は悪くはないのだろう。けれど、彼の顔を見るとそうとは思えない。

 ラスト。3号は被告人に息子を重ねて有罪に固執していたが、手帳から落ちた息子の写真を目にしてとうとう被告人の無罪を認める。泣き崩れる3号を陪審員たちが見ているなかで、7号の靴の音が「トン」っと響いた。3号と椅子の上で片膝を抱える7号に照明が当たっていて、二人の間には“何か”が感じられた。

 もしかしたら、7号と父親との関係はよくないのかもしれない。嫌っている父親を重ねて見ていた3号が、息子の写真を見て泣いている姿を前に、自分と父との関係を改めて振り返っているのかもなとも思う。

 若い頃は、親を完璧な存在だと無条件に信じてしまいがちだ。それがいつしか欠点のある普通の人間であると気付く。7号は3号を通して、自分を殴っていたりしていた父親も、3号と同じように情けない面を持つただの人間だと気づいたのかもしれない。現実を知った寂しさのような。その静かな横顔が好きだった。やかましく騒ぎ立てて本心を覆い隠しているような7号の心がさらけ出されている、そんな感じがした。

 評議室を去るときの7号は、3号に手を差し伸べたりはしていなくて、交流が生まれることもなかったけれど、何かを言いたそうに見えた。よく分からないけど、よく分からなかったからこそ、この先二度と交わらないであろう二人が切ない。

 ……という感想を去年持ったので、2021年の大阪Aチームの7号がとても新鮮だった。

 

大阪Aチームの7号

 糠信7号は、12人の中でも背が低い方で歳も若い。遠目からでもぱっちりとした目が印象に残るし、顔立ちも幼く見える。スーツやジャケットを着込んでいる人が多い中でデニムと柄シャツを身にまとっているのも相俟って、TPOをわきまえない成人したての若者のようだ。

 彼は、他の陪審員からも子供扱いされている7号でもあった。8号は、被告人の弁護人は国選弁護人なのだと7号に説明するとき、言葉を噛み砕くように話す。去年、8号を見て淡々と理論を積み重ねていく冷静で公平な人物だと感じていたこともあり、7号を子供扱いする様子が際立った。他の陪審員にちゃちゃを入れる7号の立ち回りも、大人から相手にされない子供がちょっかいを掛けて気を惹こうとしているようにも見える。

 そんな7号は、11号とのやり取りが印象的だ。

 11号は、時計職人の移民であり、これまで多くの偏見に晒されてきたことを伺わせる。陪審員制度に誇りを持っていて、議論にも真摯に取り組む人物だ。

 11号が「合理的な疑いの意味はわかっているか」と問うとき、その質問には、年下の子供の理解度を確かめているような響きがあった。7号は「ガキ扱いしやがって」とキレる。

 去年は東京の2チームしか観ていないが、他のチームの7号からは、周りからバカだと思われることを怖がって強い言葉を使っているような印象を受けた。Bチームの7号も周囲からバカにされたと感じることで爆発していたようだが、”ガキ扱い”されることにキレたりはしない。30代前後の役者が演じる7号は、ガキと呼ばれる年齢ではないから自分がガキだという意識もなく、ガキ扱いされたところで痛くもかゆくも無いだろう。1号は子供っぽいと指摘されると怒るけれど、1号の“子供っぽさ”とB7号の“ガキっぽさ”は異なる性質ものだ。

 7号と対峙する11号は年長者の顔をしている。7号と周囲の陪審員たちの対比が彼のガキっぽさを強調する。7号は、大人達から対等に扱われないことに怒っている。

 7号が投げやりに「無罪」と宣言したとき、11号はどうしてと詰め寄った。11号は何度も理由を問う。何故です。肩を揺さぶって、目を合わせて。声には次第に熱が帯びる。役者同士は20歳差、身長も15cm近く違う。11号は怒っているというよりも、人の命が掛かっている場面で安易な行動を取る7号を叱っているようだった。脱ぎ捨てた柄シャツを握る7号の右手は力を込めすぎて震えていた。口からは問いに対する答えが出てこない。それでも11号は問い続ける。何故。

 訪問販売のセールスマンをしている7号は、出たとこ勝負をモットーにしている。そんな彼は人の命を左右するような重い議題に向き合ったことがあるだろうか。他人から向き合って叱られたことは。

 手の震えと歪む横顔に、7号の未熟さを見た。未熟な彼に人の命を左右する決断に関わらせるのは酷だと思う反面、「疑問があるから有罪に」と口にしたときに7号が感じたであろう重みはこの議論の当初から感じているべきものだったとも思う。

 ラスト、評議室から出る7号と11号の視線が交わる。11号を見上げる7号の横顔には、なんともいえない雰囲気があった。あの瞬間がとても好きだった。

 大阪 Aチームは、私にとって、7号と11号の物語でもあった。

 

関西弁だとまったく違って見える12人

 私の母国語は東北弁なので、こてこての関西弁はもはや外国語である。

 大阪Bチームは、12人のうち7人が関西弁で演じる。冒頭、標準語だと少しピリっとした雰囲気のある初対面での探り合いのやりとりも、過半数が関西弁だと一気に和やかな雰囲気になった。10号の尖った発言も、どっとウケたような空気が作られて流されていく。3号も声の大きい少しやっかいなおじさんという印象で、職場で嫌いな部下にパワハラとかしてそうだけど、取引先には好かれていそう。その中で「話し合いましょう」と標準語で頑なに主張する8号は、全く空気が読めていないように見える。

 8号は、評議室に入ってから、周囲の人とほとんど言葉を交わすことなく窓の外をじっとみていた。前傾姿勢で、少し肩を丸めて。相互にコミュニケーションを取り合って場を暖めるような印象のある他の陪審員たちの関西弁でのやりとりとの対比で、8号の言葉は浮いているような気がしてしまう。

 同じ作品なのに、方言で演じられると全然違う。1号は標準語だが芸人さんが演じていることもあってか全体的に賑やかで、同じ脚本を演じているのに、Aチームとは議論の流れも全く違っているような気すらした。面白い。


ナイコン12人2021

 この作品の舞台を現代日本に設定しようとする意気込みを感じたのはよかった。現代ではだれでも当たり前に持っている携帯電話を評議室で使う人間がいない理由にも説明が加わっている。一秒の判断が問われる株のトレーダーである4号が新聞で情報を得ているとするならばとんだポンコツで、彼の立ち居振る舞いからにじみ出る自信には何の根拠もないことになってしまうことを考えると、よい変更だったと思う。デジタル派4号と紙派3号のやり取りによって、キャラクターに深みが増す。

 目撃者女性の証言の信用性を検討する際に「女性はコンタクトを付けていたのではないか」という疑問が上がるのも、コンタクトレンズが普及した現在では当然生じうる疑問だろう。原作映画が放映された当時から変化した技術に合わせて、細かな描写が変化しているのは面白い。

 しかし、作品の舞台を現代日本に設定するのはやはり難しい。ナイフでの喧嘩が日常茶飯事なスラム街と言われてもピンと来ないし、現代が舞台であるならば、陪審員が全員男性というのもアンバランスだ。目撃者女性の証言の信用性を否定する議論は女性蔑視だという批判も生じうる。何らかの手当が必要だろう。また、陪審員制度はこの国が誇るべき制度だと語る11号のセリフも、"この国"の特徴として自由が挙げられているから違和感がある。日本社会の外国人を取り巻く現状に鑑みると、日本の法制度や社会制度を誇りに思う移民がどれだけいるかも疑問だ。

 細かいことは様々あるが、作品が持つテーマは普遍であり、ナイスコンプレックスの12人の男は面白い。同じ演目を年をまたいで見続ける楽しさも見つけることが出来た。東京公演も、来年の12人の怒れる男も楽しみだ。

 

  

 

【感想】ゼロの無限音階

あらすじ

<完全会員制のコミュニティで仕組まれた愛憎と裏切りの残酷な物語>

イギリス、カムデン・ロンドン自治区。賑わうカムデンマーケットの裏路地に佇む寂れたビルの一室で、週に一度コミュニティが開催されていた。マーケットの喧騒が微かに聴こえるこの閉鎖された部屋で行われているのは、完全会員制の精神疾患アルコール依存症など様々な「見えない病気」を世間にわからないように改善させる治療。あまり自覚症状のない患者が病院に行き、重度ではないと診断されるとこの施設を紹介される。同じような仲間と語り合えるサークルのような場所で、週末のコミュニティが輪になって始まった。

テーマは「自分について」。

 舞台『ゼロの無限音階』銀座博品館劇場
 

演劇を観に行くときは、公式ホームページに載っているあらすじが頼りだ。出演者、演出家、原作、ホームページの雰囲気、インタビューで語られている内容、上演される劇場。様々な要素を組み合わせて、どんな作品かを予想する。私は、ゼロの無限音階を、陰鬱な演劇であると予想した。閉鎖されたコミュニティの中で生まれた人間関係がねじれて行き、人間の狂気的な一面が浮き彫りになるような。私はこれから、重苦しい空間でじっと息を詰める2時間を博品館劇場で過ごすのだろうと思った。

 

初日。場内に入ると、スクリーンに油絵の肖像画が映し出されていた。血まみれの少女の絵は少しずつ形を変えて、少年に変化し、そして少女に戻る。暗い色彩の絵が移り変わる様子は、二人の人間の人格が溶け合っていくようでひどく恐ろしい。幕が上がる。OPが始まる。海外ドラマのような音楽に合せて、登場人物たちが顔に手を這わせてゆっくりと振り向いた。一糸乱れぬ動きをする人々の暗くよどんだ目。これから始まる作品は、精神疾患罹患者の現実と人間の愛憎を描いた重い物語の予感があった。予感は、あったのだ。

 

その後、スクリーンが降りてきて、地球が映し出された。ヨーロッパにクローズアップし、イギリスが示され、ロンドンまで視点が寄る。そして、航空写真のような画像とロンドンの風景写真が投影された後、スクリーンが上がった。丁寧に導入されたので、私は、この作品の舞台はリアルなロンドンなのだと思ってしまった。

 

第一の場面は、ロンドン市警だ。本作の黒幕であるチャーリーと上司の会話が始まる。チャーリーは精神疾患を持つ者が集まるコミュニティへの出向を志願する。上司は尋ねる。どうしてお前ほどのエリートが出向を志願するんだ。チャーリーは答える。助けたいのだ、と。上司は言う。「エリート過ぎて神の領域に達しちまったってわけか」。私は「ん?」と思った。続いて上司、「俺個人としては、お前が選ばれないことを祈るよ」。んんん?

 

欧米人らしい軽快なやりとりをしたいシーンなのは分かる。けれど、肩幅があっていなさそうな衣装を纏う上司、台詞とボディーランゲージがイマイチかみ合っていない絶妙な間合い、精度が低い掛け合いなどにより、海外の風を感じることはできなかった。背景となっているCGが「CGです!!!」という存在感を放っていたのもよくない。

 

上司とのやりとりの後、チャーリーは後輩である女刑事アメリアと話す。アメリアはチャーリーに呼びかける。「チャーリー先輩!」。日本的な上下関係を表す敬称がアメリアの口から飛び出て、私は再び「ん?」と思う。人間の本質を描いた目を背けたくなるような重たい話を観られるという予感が旅に出る準備を始めていた。

 

実際に上演されたゼロの無限音階のあらすじはこうだ。

 

エマは、幼い頃に近所のおじさんから強制わいせつの被害を受け、高校の時は教師から強制性交の被害を受け、大学のときは彼氏とその友人から強制性交の被害を受けた結果妊娠し、中絶した*1。躁鬱を患っているエマはコミュニティに参加し、失感情症のレオンと出会い、なんやかんやあるのかないのかは分からないが恋に落ちる*2。エマを抱いて彼女を愛したレオンは、エマから過去の被害を聞いて男達に復讐する。レオンが殺人を犯していると察したエマは、犯行現場で犯行を目撃する。そして、レオンが憎んでいる対象を殺すと失感情症が回復していくことに気付いた*3。だから、二人で過去に自分たちを少しでも苦しめた人物たちを殺していくことを決める*4。コミュニティの参加者もとにかく殺す。本作の黒幕であるチャーリーは何らかの目的を持っており、観客が想像もできない超絶クレバーな作戦で裏で密かに暗躍する*5。エマとレオンはばったばったとロンドン中の人間をリズミカルに殺す。しかし警察に追い詰められ、心中することにする。レオンとエマは同時に拳銃を互いに向けて撃つが、レオンに銃弾が届くことはなかった。エマは死に、レオンは心神喪失が認められて精神鑑定にかけられ、不起訴処分で国外追放になる*6

 

シリアスなサイコサスペンスが観られるかもしれないという期待が消え去るシーンがある。本作の黒幕であるチャーリーが裏で糸を引いて、レオンとコミュニティの参加者・ペネロペを殺し合わせるシーン。 

チャーリーは、エマに「レオンを止めて欲しい」と頼まれたことを利用して、ペネロペとレオンを殺し合わせようと画策する。チャーリーの作戦はこうだ。

 

エマに、覆面の男に乱暴されたと嘘をつかせる。レオンは、エマから覆面の男に再び呼び出されたと聞く。レオンは復讐を決意し、覆面の男から呼び出された場所に行く。同時に、チャーリーはペネロペに対し、覆面を被ってレオンとの待ち合わせに行くように伝える。レオンは照れ屋だから、ペネロペの顔を見て話ができないのだ。エマは、待ち合わせ場所に行くのはチャーリーで、チャーリーがレオンを止めてくれると信じている。レオンは待ち合わせ場所にいる覆面を被ったペネロペを復讐対象だと誤認する。攻撃する。空手の達人ペネロペとインターネットで知識を得た最強の男レオンの殺し合いが始まる。

 

 呼び出し場所で覆面を被って黒ずくめの装束で待機していたペネロペは、チャーリーにナイフを向けられるが無言で応戦する。知り合いからナイフを突きつけられて、ペネロペが身元を明かさないのはおかしい。復讐対象は男であるはずなのに、あきらかに小柄な相手を前に疑問も持たずに攻撃を加えるレオンもおかしい*7。全部がおかしいが、レオンが無駄に強いことに疑問は生まれない。なぜなら、レオンはインターネットで得た知識を遂行する能力に長けているからだ。めちゃつよレオンに対峙するペネロペも、「私が強いってこと、忘れてた?」と暗黒微笑をキメているシーンがあるから彼女の強さもお墨付きである。

 

ペネロペの死をきっかけに、物語のご都合主義は加速し、Never EVERの超絶かっこいいサウンドとともに、サイコサスペンスから殺戮ショーに転換する。みんな死ぬ。ざくざく死ぬ。レオンとエマの顔には罪悪感も倫理感も浮かんでいない。音楽に合わせてざしゅざしゅバキュンバキュンと人が死んでいくのは鮮やかで楽しい。鮮血が吹き出すのも爽快感がある。

 

爽快戦国アクションゲームの舞台を観に行くつもりで来ていれば戸惑わなかった。おとぎの国で行われる精神疾患コミュニティの騙し合いと言われていたら、設定にリアリティは求めない。エマとレオンの周りにいる人たちがジュから始まる地球征服をもくろむ宇宙人なのだとしたら、命をなんとも思っていないような描写も「そうね」と思う。

 

初日。ゼロの無限音階は、現実のロンドンを舞台とした現代を描いた作品であり、人間の本性を浮き彫りにするようなシリアスなサイコサスペンスだと思っていた。だから、設定の甘さが目に付いた。病気を抱えている人間を描いた作品だというあらすじで覚悟していたような、精神疾患を持つものの生きにくさを受け止めるしんどさや、自分自身が抱えている健常者としての傲慢さを突きつけられるショックを感じることはなかった。

 

この作品が事前情報で期待した通りの作品であったかと聞かれたら、否だ。けれど、爽快な殺戮ショーとして観るなら面白かった。

 

 

 

*1:あるにはあるだろうけどそんなことある?

*2:エマ側の感情は特に描写されてない気がする。レオンはエマを抱いて恋に落ちてしまったようにも見えてそれはあまりにチョロすぎでは?ていう疑問がなくはない

*3:説明不足!!!なんでやねん!!!!

*4:本作で最もかわいそうな人物は義父

*5:なんかすげー目的があるらしいけどそれは明らかにならない。観客の想像に任せるテクニックかもしれない

*6:パワーワード「不起訴処分で国外追放」。

*7:まず手袋つけよう!指紋が残ると不味いよ!!

【感想】明けましておめでたい人

 小劇場初心者である。

 銀河劇場に行っては「このくらいの規模感だと後方でも表情が見えていいよね~」などと語り、博品館に行っては「あの劇場ならではの空間がいいよね~~」と笑う日々を送ってきた。

 

 50人も入らないようなハコで観るお芝居はそれだけで緊張する。演じられているその場所と自分がいる客席が、あまりにも近いから。ちょっとした身じろぎが空気を壊す。咳き込もうものなら途端に白けさせてしまう空間で一人の観客が背負う責任に、私はまだ慣れていない。

 明けましておめでたい人は、これまで観たどんな演劇よりも“近い”作品だった。そして、いささか遠くもあった。

 勉強会や会議に行くことがある。会議室に来る人たちは既に顔見知りで、「おお」とか「ああ」とか言い合っている。私は、その空気を感じないようにしながら、じっとスマートフォンに目を落とす。そういう気まずさに似たものが、今回の会場にもあった。だれかの知り合いと思われる人たちが、「えー、どこに座ろう」と声をひそめることなく入ってくる。会場の真ん中で笑いながら風呂椅子に座って、出演者の個人的な話をしている。あの場所は“そういう場所”だった。客入れをしていた山脇さんは、その場所からアクリルパネルの向こう側にぬらりと移動して舞台に立ち、これは自分の話なのだと説明する。そうして劇が始まる。

 始まった作品は、どこまでいっても山脇さんの話だった。べたぼれしている彼女が元カレのところに戻ってしまったこと、母親との喧嘩、家族の息苦しさ。劇的なことは起こらない。みんなに祝福されるようなハッピーエンドも迎えない。現実をもとに作られているから、伏線回収の美しさもない。嫌な現実感がだけが迫ってくる。私の中にある他人の腫れた惚れたに今一つ興味を持ちきれない感覚が劇を観ていてリアルに蘇る。様々な“嫌さ”が面白さだった。劇となっているものを切り貼りして勝手に解釈を広げていくことは、してはいけないことのような気もした。

 終演後、「この話のときの山脇と会ってたわ~」と話す声を背に階段を降りた。きっとこの作品にとって私はよそ者だった。この劇は"お客様"に向けられていたものではなく、山脇さんの自己表現であり、"解る"人にだけわかればいいと思っているような空気が滲んでいた。描かれていることは近いのに、作品を取り巻く環境から疎外されている。うわ~~~~となった。その感覚や体験込みで面白かった。

 

 そしてもう一つ、感じたことがある。役者はめっちゃ悪趣味な人種だ、ということ。

 山脇がヒロインに告白するシーンがある。ヒロインを意識して緊張している山脇が芯を食ってないことをぐだぐだと浮ついた様子で話すのを観て、「あ~この空気知ってるな」と思った。こっぱずかしさとか、見てるだけで恥ずかしくなる様子とか。恋愛の過程のなんともいえないあのやり取りは、山脇さんの身に実際に起こったことだという。

 告白しようとしてるときや家族と喧嘩しているとき。感情が大きく動いているまさにその時に、自分やその場の空気を俯瞰して分析して記憶しているのでなければ、こんな作品は作れない。山脇さんは、自分が母親と喧嘩をしているとき、妹がそれを嫌がっていると感じていた。自分がうっかり告白してしまったとき、ヒロインはまんざらでもない顔をしていたと思っていた。この作品では、他人が山脇さんの言動をどう受け止めたのかまでが克明に描かれている。

 お芝居を観るのが好きだと思うようになってから、そして、感想を言語化して書き留めることを始めてから、日常で何かを感じたときに「この感覚はお芝居を観た時に活きるだろうな」と思うことが増えた。大きく心が動くときのことは特に、プラスの感情でもマイナスな感情でも覚えておけるように反芻する癖がついている。応援している役者が「僕は役者だから、生まれてくる感情は全部自分のなかで咀嚼して板の上で出したい」「引き出しを多くしたい」というようなことを言っていた。抽象的な言葉で聞くと私と似通っているところがあると思う。

 けれど、私のそれと役者のそれは大違いなのだろう。演劇を突き詰めることはどこかグロテスクだ、と今の私は思う。

【感想】わが花

1999年のNY、三番街に建つ古いアパートで日本人ライターの紺野丈雄は取材を続けている。

 取材相手は第二次大戦後にGHQが日本民主化のために設立した部署CCD(民間検閲局)に所属した経験を持ち、それ以前にはマッカーサーの補佐的立場であったというアメリカ人、フォービアン・バワーズ。

50年以上前のことを驚くほど鮮明に語るバワーズの様子に違和感を覚えた紺野に、ハウスキーパージーンはこっそりと耳打ちする。

「最近は特にね、向こうにいる時間が長いみたいなの」

若かりし頃へと逆行したバワーズは、紺野のことも、当時親交のあった「キイチロ」という人物だと思い込む。

紺野演じるキイチロの奇妙なインタビューが始まり、バワーズの意識は1940年代の日本へと融けていく…。

歌舞伎の上演規制と解禁に携わった検閲官たちの目を通して描く、「権力と芸術」或いは「人と芸術」の物語。

 

 

 客席に座った。5センチ先にはステージがあった。最前列にフェイスシールドは配られていなかった。とすれば、出演者もマウスガードをしないのだろうと思った。 

  新型ウィルスが猛威を振るい、ディスタンスを保たなければならない世の中になってから、いくつかの舞台を観た。私が観た作品のほとんどはステージと客席との距離が2メートル以上離れていて、一番前に座る観客はフェイスシールドを着用していた。ステージを照らす照明がプラスチックに反射し、うっすらと膜が張られた視界のなかで、はやく元通りになればいいのにと思ったことは一度ではない。板の上から放たれる声は、マウスガードに反響して妙な響きを帯びていた。

 劇中、出演者が手を伸ばせば届く距離を通り過ぎるのを観ながら感じたのは、「戻ってきた」ということだった。私が観たいと切望していたそれまでの演劇と同じもの、同じ空気が、目の前にある。それがとても感慨深かった。バワーズの熱狂的ともいえる歌舞伎への熱意はどこから生まれるのだろうと考えながら、あるいは、戦後という時代背景を考えながら、観劇しているこの時間だけは“今”を忘れて作品に集中できる、と思った。

 そうとまで思ったからこそ、バワーズを問い詰める紺野の言葉のひとつひとつが突き刺さったのだろう。

 紺野は言う。演劇はそのときその場所から見えるものを映し出すのだ。だから変容する時代に応じて歌舞伎も変わる必要があったのではないか。過去を再現するだけの演劇を観たとき、その時代を生きている人間は何を観ることになるのか。

 

□□□

 私が戻ってきてほしいと願うものは一体""何""なのか。 

 演劇を観ては、感想を書いてきた。感想を書くということは、自分の感情を見つめ直し、理解するということだった。あるシーンに心を動かされた理由を言葉にしようともがくときはたいてい、自分自身の体験に行き当たる。観劇することは、私自身を知ることでもあった。

 マスクを付けて外出することが日常になっている。顔を覆う布がないと、服を着ていないような居心地の悪さを感じるようになった。1年かけてじわじわと浸透してきた新しい生活様式によって変わってしまった感覚は、このウィルスに打ち勝つことができたとしても、「無かった」ことにはならない。

 戦後すぐは、アメリカ軍の検閲によって歌舞伎の公演がほとんど出来なくなってしまったそうだ。80年以上前の出来事を描いた作品で、バワーズが歌舞伎の現状について述べる台詞が、まるで現在を語っているかのように響いてくる。アメリカという権力に対して声を上げなかった戦後の日本人の姿が、現在と重なって感じられる。きっと2年前に観たら、全く違うことを感じただろう。バワーズの歌舞伎に対する熱意に対する感動が感想の大きな部分を占めていたかもしれないし、芸術が人を救うことについて考えていたかもしれない。作品を通して、私の置かれている環境が変化していることに気付かされる。

 これからも、そして現在も、時代を反映した作品がきっとどこかで上演されている。私はずっと、「元に戻る」ことを願っていた。けれど、過去に戻ることはできないのだ、と漠然と思う。