【感想】ミュージカル「アルジャーノンに花束を」

 冒頭、たどたどしく言葉を紡ぎ、おぼつかない足取りで子供みたいな格好をしてあどけない表情を浮かべているチャーリィは、汚れを知らない無垢な存在にみえた。私が彼に対して抱いた印象は、矢田さんの大きなキラキラとした瞳や天使のような柔らかさのある笑み、清潔感のある透き通った容姿が影響していることを自覚していた。うつくしい容姿をしているから、チャーリィに好感を抱いた。それでいいのだろうか。うつくしさに心を奪われていることに気付かないふりをして、チャーリィという人間を捉えて感想を述べることが“正しい”のだろうか。もっと踏み込んで言うならば、子供のような格好をして子供のように無邪気に笑う32歳の肉体を持つ男性が、ありふれた容姿であったなら。私は、チャーリィに心を寄せて物語を追うことができただろうか。肉体の年齢にそぐわない表情を浮かべて、要領を得ない話し方をするチャ-リィのことを知りたいと思っただろうか。

 

 知能が低かったチャーリィは、周囲に不満を持つことなく、自分で居場所を作ってニコニコと笑っていた。“友達”に馬鹿にされて笑われていても、彼はそれに気がつかなかった。

 実験によって知能の向上が始まったとき、「不満を持つことができる!」と、喜色にあふれた声色で告げるバードが印象的だった。醜い感情だとカテゴライズされがちな不満や苛立ち、焦りや葛藤は、一定程度の知能が無ければ感じることすらできない。天真爛漫で無垢なチャーリィは、苛立ちを表に出さない成熟した人格を有しているわけではなく、そう在ることしかできないのだ。

 子供の頃、小説を読んでいたとき。そんなことには思い至りもしなかった。知性を獲得して疎んじられるチャーリィに、世の中の不条理を感じた。正しいことを言っているはずなのに、世間は論理的に“正しい”選択ができない人が多いから、チャーリィの知性が軽んじられてしまうのだ、と。私は傲慢で潔癖な子供だった。過去の自分を俯瞰的にみられるようになったのは、私が世間にもまれてきたからで、チャーリィがごく短い期間で知ってしまった世間の真実を、時間をかけてゆっくりと飲み込んできたからだった。

 情緒を育てる時間を育てられなかったチャーリィを取り巻く状況は悲劇だ。高い知性は、鋭い観察力と分析力を彼に与えてしまう。チャーリィは深い洞察によって知った人間の醜さを、子供のような柔らかい心で受け止めなければならない。チャーリィの外見は32歳の成人男性で、論理的な話し方をする彼を前にしたほとんどの人は、彼の情緒もまた成人男性と同等に成熟していると思うはずだ。

 チャーリィの実験は、悲劇的な結末を迎えたと感じる人が多いだろう。短期間に知性が飛躍的に上昇した彼は、周囲と不和を起こして孤独を抱えた。世界中のあらゆる論文を精読した彼が、実験の行方について悟ってしまった瞬間のいたたまれなさは深く心に残っている。けれど、と思うのだ。けれど、彼は、自分の人生について考える道具を得た。終わりに向けて、何をすべきかを考えることができた。それは、とても小さなものではあるが、救いなのではないか。

 子供の頃に読んだ小説と、社会に出てしばらくが経った今観たお芝居では、受け取るものが大きく変わった。それは、私が大人になったからでもあるが、劇場で、チャーリィの半生を演じた矢田さんをこの目で観て、チャーリィが人間であると実感したこともきっと大きい。

 学生のときに感想文を書かされていたら、「障害者であっても人間に変わりは無いから、優しさを持って接したい。」というようなことを書いたと思う。けれど今、そう書くことには躊躇いがある。その優しさは、哀れみや同情にすぎないのではないか。人を一人の人間として尊重するにはどうしたらよいのだろう。千秋楽の日からずっと考え続けている。