【感想】ナイコン12人東京Bチーム

 ナイコン12人の夏が来た。去年の東京ABチームを観て、今年は大阪東京ABを観た。どれもとても好きだったけれど、東京Bチーム千秋楽が一番印象的だったので、主にその感想を書く。

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 父親を殺したという罪で刑事裁判にかけられた少年が有罪であるか無罪であるかを、12人の陪審員たちが真夏の評議室の中で議論するというストーリー。最初の評決では、陪審員8号を除く11人が少年の有罪を主張する。これに対して陪審員8号は、粘り強く「話し合いましょう」と説得を続ける。孤軍奮闘の8号の勇気に心を打たれた老人の陪審員である9号が無罪に票を投じると、早く帰りたがっていた陪審員たちは次第に話し合いに参加しはじめ、議論の中で陪審員たちの心の中に合理的な疑問が生じていく。最後まで有罪を主張していた陪審員3号が、自らが裏切られた子供と被告人を重ねて「クソガキは全員死ねばいい」と思っていたことに気づくと無罪に票を投じ、全員一致で被告人が無罪となるという流れだ。

 有罪派の陪審員たちは、クーラーが動かない部屋に閉じ込められているのに辟易としていた。3号は関西弁の声がでかいおっさんで、無罪を主張する8号に「気でも狂ったか」とまくしたてる。10号は健康系の仕事で荒稼ぎしている都会的な印象のある若い男。真夏に風邪を引いている。彼は誰かが何かを言うたびに口をはさんでは議論の進行を妨げるし、スラム出身の人間に強い偏見を持っている。7号はヤカラといった雰囲気の若者。議論の行方なんてどうでもいいと思っている。これらの人々が議論をひっかきまわし、場を荒らしていく。

 その中で、陪審員4号は、有罪派の中で最も論理的な人物だ。8号の主張に対して意見を述べる4号の理論は整然としていて、説得力がある。Bチームの横井4号は、人とコミュニケーションを取ろうと努力している様子があった。去年観たナイコン12人や今年のAチームの4号はつんとしている印象があったから新鮮だ。3号に新聞を読んでいるのかと話しかけられた4号は、一言だけ返して会話をぶったぎった後、とりなすように3号に向き直って会話を再開する。全員をまとめるのに嫌気がさした1号をフォローするかのように、1号の肩に手を置いて何かを話したりもしていた。自分の意見の根拠を述べるときも、時には机に手をついて前のめりになりながら、時には評議室の中を歩き回って陪審員一人ひとりと目を合わせながら話す。Aチームの4号が、正しい理屈を提示することに重きを置いているとすると、Bチームの4号は、他の陪審員たちの理解を重視しているようだった。自分の話を遮られて苛立ちを露わにする様子も人間らしく、4号にはなんだか好感が持てる。

 対して、8号は頑固者の変人という印象だった。背を丸めた8号の声はざらついていて、陰鬱な雰囲気が感じられる。議論を進めようと仕切り役を務める1号が、「子供みたい」と言われてキレているとき、8号は、テーブルの反対側で起きていることなどおかまいなしといったふうに屈伸運動をしたりもしている。4号が言葉をかみ砕くように話すのと比較すると、8号は、自分の意見をまくしたてているだけのようでもある。犯行に使われた凶器に議題を絞ることになったときに笑顔を見せるのも、場に不釣り合いな気がした。4号に親しみが持てる分、寄り添うことが難しい8号でもあった。

 これはかなり面白いな、と思った。何回か見て議論の終着点を知っているので、8号の言動を正しいと思いがちだし、一人戦う8号はヒーローにも見えそうである。実際、Aチームを観ているときは、8号を応援するような気持ちで見ている。有罪派の意見に懐疑的にもなる。でもBチームだと、4号に肩入れして、8号に反感を覚えた。俺は個人的な感情を抜きで意見を言っているのだと声高に主張する3号に冷ややかな気持ちを持っていたのに、誰が発言したかによってその意見の重みや意味合いを違ったものとして受け止めている自分に気づく。「個人的な感情を抜きに」物事を考えることの難しさを知った思いだ。

 

 本作は、3号、7号、10号が嫌われないように演出されているようである。3号は、被告人と自分の息子を同一視して、自分を裏切った息子が許せないがために被告人の死刑を願う男。7号は、場を引っかき回して議論を混乱させる若者。10号はひどい偏見の持ち主だ。

 Bチームの3号は、関西弁の気さくさがあり、にっと笑った顔に愛嬌がある。大声で怒鳴ってまくし立てる姿を前にすると顔を顰めたくなるが、中小企業の社長としてはやり手そうでもある。自分がカッとなりやすい性質であることを十分に自覚していて、5号にキレた後は背を丸めて「あんたは立派や」とフォローの声を掛けた。私だったらほだされてしまっただろうなと思う。しつけとして子供を殴ることは刑事罰の対象となるし、厳罰化もされている。そういう世の中で息子を殴って男にしてやったのだと豪語する3号はやはり好きにはなれないし、3号の息子は3号と和解する必要もないと思う。けれど、写真を拾い集めてうずくまる姿があまりに哀れで、自業自得だと切って捨てることができない。

 7号は、無罪に意見を変えたとき、11号から今まで議論に真面目に参加していなかったのにどうして今無罪に変えたのかと問われる。Bチームの7号は幼く見えるので、原作にはない「大人の仲間になりたいのなら理由を言え」という11号の台詞がしっくりくる。問い続けられ過呼吸になりかけるまで追い詰められた7号は「疑問があるから」と答える。11号との問答が終わっても7号は動けない。そんな中で1号が「評決を」と話を進めると、6号が「ちょっと」と制止し、床に落ちた7号のシャツを拾って7号の座席の椅子を引いた。1号は「失礼」と短く返す。千秋楽で見たその短いやりとりがとても良かった。6号は、7号が老人である9号を侮辱するたびに叱っていたし、1号は7号の茶々で議論の進行が妨げられるたびにうんざりとしていた。7号に対して不快感を示していた2人である。だから、6号の行動は、7号を大人の世界に迎え入れることを象徴しているように思えた。自分の意見を言わないでのらりくらりと過ごしてきた若者が成長した瞬間に立ち会ったようでぐっときた*1

 Bチーム10号は、今時な雰囲気を持つ人だった。序盤、議論を遮る振る舞いが目立つが、明瞭な話し方は学歴の高さを感じさせる。4号に親近感を持っているのか、4号が話すたびに頷いたり、4号が映画の名前を思い出せずに窮地に陥ったときは「まあまあ」と口を動かし、フォローするような様子を見せたりしていた。

有罪派が10号を含めて3人になって形成が逆転したとき、10号がスラム街出身者への偏見をまくし立てる。聞くに堪えない言葉に、陪審員たちは一人、また一人と席を立ち、10号に背を向けて無言の抗議をする。10号の言葉に、次第に縋るような弱さが顕れてくるのがよかった。

 10号のそれまでの振る舞いで、「偏見が強いところがあるけど友達になれそうだな」と思っていた。ちょっとした冗談を提供してくれる気さくさやちゃきちゃきした話し方は、時と場合によっては好感が持てるかもしれない。その彼が、自ら信じていたものを非難され、強い抗議を受けていた。ひどく動揺していた。去年観たときは10号が非難を受けるのは当然だと思っていたし、自分とは最も遠い理解できない人物だと思っていたけれど、今年のBチーム10号はどこか身近さがあって、追い詰められた彼の気持ちも理解できるような気がしてしまう。4号が「黙れ」と10号の言葉を封じるとき、言いたいことは分かったと10号に寄り添うような言葉を掛ける。机を強くたたくこともしないし、大きな声を上げることもない4号は、偏見にとらわれる10号を哀れんでいるようにも見える。

 今年の12人の怒れる男は、強い偏見を持つ3号10号に親しみを抱き、愚かな他人と切って捨てることができなかった。陪審員は、他の陪審員たちと人間関係を持たない。だから彼らは、3号や10号、7号に対して厳しい対応ができるのだと思う。3号が私の上司だったら顔色を窺ってしまうし、10号や7号が友達だったら彼らをいさめることができないだろう。同じように、私が非難されるべき偏見を抱えていたとしても、友人や職場の人々はきっと指摘をしてくれない。

 全ての人間が偏見を持っているという。私が非難されるべき偏見を無意識に抱えているとしたら、そしてそれが言葉や態度で表に出てしまったら、自分で気付くことができるだろうか。

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*1:7号と11号のやりとりのあとに12号がジャケットを脱いでいるのもよかった…。自分の意見を持てないでいる12号が歯がゆかったので、青年の成長に胸打たれて意見を持つことを決めたように思えた