【感想】明けましておめでたい人

 小劇場初心者である。

 銀河劇場に行っては「このくらいの規模感だと後方でも表情が見えていいよね~」などと語り、博品館に行っては「あの劇場ならではの空間がいいよね~~」と笑う日々を送ってきた。

 

 50人も入らないようなハコで観るお芝居はそれだけで緊張する。演じられているその場所と自分がいる客席が、あまりにも近いから。ちょっとした身じろぎが空気を壊す。咳き込もうものなら途端に白けさせてしまう空間で一人の観客が背負う責任に、私はまだ慣れていない。

 明けましておめでたい人は、これまで観たどんな演劇よりも“近い”作品だった。そして、いささか遠くもあった。

 勉強会や会議に行くことがある。会議室に来る人たちは既に顔見知りで、「おお」とか「ああ」とか言い合っている。私は、その空気を感じないようにしながら、じっとスマートフォンに目を落とす。そういう気まずさに似たものが、今回の会場にもあった。だれかの知り合いと思われる人たちが、「えー、どこに座ろう」と声をひそめることなく入ってくる。会場の真ん中で笑いながら風呂椅子に座って、出演者の個人的な話をしている。あの場所は“そういう場所”だった。客入れをしていた山脇さんは、その場所からアクリルパネルの向こう側にぬらりと移動して舞台に立ち、これは自分の話なのだと説明する。そうして劇が始まる。

 始まった作品は、どこまでいっても山脇さんの話だった。べたぼれしている彼女が元カレのところに戻ってしまったこと、母親との喧嘩、家族の息苦しさ。劇的なことは起こらない。みんなに祝福されるようなハッピーエンドも迎えない。現実をもとに作られているから、伏線回収の美しさもない。嫌な現実感がだけが迫ってくる。私の中にある他人の腫れた惚れたに今一つ興味を持ちきれない感覚が劇を観ていてリアルに蘇る。様々な“嫌さ”が面白さだった。劇となっているものを切り貼りして勝手に解釈を広げていくことは、してはいけないことのような気もした。

 終演後、「この話のときの山脇と会ってたわ~」と話す声を背に階段を降りた。きっとこの作品にとって私はよそ者だった。この劇は"お客様"に向けられていたものではなく、山脇さんの自己表現であり、"解る"人にだけわかればいいと思っているような空気が滲んでいた。描かれていることは近いのに、作品を取り巻く環境から疎外されている。うわ~~~~となった。その感覚や体験込みで面白かった。

 

 そしてもう一つ、感じたことがある。役者はめっちゃ悪趣味な人種だ、ということ。

 山脇がヒロインに告白するシーンがある。ヒロインを意識して緊張している山脇が芯を食ってないことをぐだぐだと浮ついた様子で話すのを観て、「あ~この空気知ってるな」と思った。こっぱずかしさとか、見てるだけで恥ずかしくなる様子とか。恋愛の過程のなんともいえないあのやり取りは、山脇さんの身に実際に起こったことだという。

 告白しようとしてるときや家族と喧嘩しているとき。感情が大きく動いているまさにその時に、自分やその場の空気を俯瞰して分析して記憶しているのでなければ、こんな作品は作れない。山脇さんは、自分が母親と喧嘩をしているとき、妹がそれを嫌がっていると感じていた。自分がうっかり告白してしまったとき、ヒロインはまんざらでもない顔をしていたと思っていた。この作品では、他人が山脇さんの言動をどう受け止めたのかまでが克明に描かれている。

 お芝居を観るのが好きだと思うようになってから、そして、感想を言語化して書き留めることを始めてから、日常で何かを感じたときに「この感覚はお芝居を観た時に活きるだろうな」と思うことが増えた。大きく心が動くときのことは特に、プラスの感情でもマイナスな感情でも覚えておけるように反芻する癖がついている。応援している役者が「僕は役者だから、生まれてくる感情は全部自分のなかで咀嚼して板の上で出したい」「引き出しを多くしたい」というようなことを言っていた。抽象的な言葉で聞くと私と似通っているところがあると思う。

 けれど、私のそれと役者のそれは大違いなのだろう。演劇を突き詰めることはどこかグロテスクだ、と今の私は思う。