【ひたすら自分語り】貴方なら生き残れるわ

 

 部活を引退してから、10年が経とうとしている。記憶は風化し、多くの出来事は忘れたことにすら気付かない。それでも、ユーチューブで配信されていたこの作品を見終わったとき、あの日のことが鮮明に、舞台を観るような感覚で、目の前に蘇ってきた。どれだけ時間が経っても「いい思い出」 として宝箱の中に納められない日々が突き刺さって苦しい。「 貴方なら生き残れるわ」は、私にとってそういう作品だった。

 

 部活というものに対する思い入れが深すぎて、フラットな気持ちで作品を見ることができなかったので、私の学生時代の話をしたいと思う。

 中学1年生の時に入部した吹奏楽部は、全国大会を目指していて、実際に、3年に一回くらいは全国に行ける程度の実力を有していた。

 練習は厳しかった。基礎も十分に習得していない楽器を抱えて合奏に参加すると、私のミスで50人の演奏が止まる。私にはわからない数ヘルツのブレを指摘され、直るまで同じ音を鳴らさせられた。顧問にも、外部のコーチにも、先輩にもたくさん怒られた。私語ひとつ許されないような緊迫した時間が流れる部活は苦痛だった。それでも、日が経つにつれて、音楽に立体感が生まれ、音が弾み出す。残響がふんわりと音楽室の中に残るのがわかるようになった。 楽しかった。練習を重ねるだけ洗練されていく。 音の調和が感じられるようになっていく。 苦しい練習を続けてようやく一体感を味わえるようになったときの感情が、私にとっての「部活の楽しさ」だった。

 私が進学した高校の吹奏楽部は、県大会をギリギリ突破できないレベルで、普段の練習は生徒の自主性に任せられていた。

 高校3年生になった。私たちの学年は楽器が下手くそだった。地区大会を抜けられるかも怪しい。

 吹奏楽部は、楽器ごとにパート分けされ、空き教室で練習をする。どの楽器がどのような練習をしているのかを管理しているわけではなかったが、漏れ聞こえてくる音から他の楽器の練習の雰囲気を察することができた。部活動中、 校舎の一番端の教室を割り当てられた私の元に届いてくる音は明らかに少ない。いくつかのパートは練習をしていなかった。合奏になれば練習不足が顕著に現れる。指揮者からどれだけ厳しい指摘を受けても、普段の練習でトランペットの音が聞こえてくることはなかった。廊下には笑い声が響く。

 私はずっと不思議だった。必死にならない部活は何が楽しいのだろう。練習をしなければ上達しない。上達しなければ音楽が美しく響く瞬間の感動を知ることができない 。大会の出場を目指している部活に入部したのに、練習時間の大半を雑談に費やして何になるんだろう。


 私は、吉住になりたかったのだ。

 プレーで誰からも一目置かれ、吉住が熱くなると、 周りもその熱に浮かされたように練習に励む。 2回戦の最後の最後まで、チームは諦めない。

 私は、そういう存在になれなかった。楽器はそれほどうまくなかった。知識があるだけで音楽性はなかった。人前に立って練習メニューの必要性を説明することはできたけれど、人望はなかった。赴任してきたばかりの顧問との信頼関係は築けなかった。仲間と雑談しながらじゃれあうことも殆ど無かった。

 バスケ部員がだらだらと費やす時間は尊くみえた。社会に出て、業務に追われる毎日を過ごしていると、仲間と目的を持たずに過ごす時間がどれほど貴重だったかがよくわかる。軽口をたたきながら練習をして、部員同士でじゃれあって、顧問の先生も仲間の一員でらそういう時間。ここに来れば楽しいと思えるような誰かの居場所は、そういうコミュニティを作ることが難しいと知った今では眩しく見える。

 高校生の私は、部員が無為に過ごす時間を少しでも減らしたかった。理想は共有されていなかった。部員を鼓舞しようと熱量を示し続けようとしている隣で、醒めた目をしていた部員がいたのを知っていた。私と、私に賛同してくれた少ない部員が理想とした部活動を目指す過程で、誰かの居場所を奪ったのかもしれなかった。野球部員たちのように誰かを追い詰めていたかもしれない。今更気付いた可能性が痛い。


 バスケ部の練習と試合を観ていると、高校生の自分に引き戻される。廊下でわいわいと騒ぎながら体育館に向かうバスケ部とすれ違うとき、目を合わせないように俯く私が目に浮かぶ。コンビニのまえに屯してる集団を見て、私はきっと買い食いを諦めるのだ。

 あの時、近くにあって遠くに感じていたバスケットボール部が舞台の上にいた。どこにでもいそうな男子高校生の会話と練習風景が、今の私が物語を俯瞰して楽しむことを妨げる。バスケットボールがゴールから外れることもある生っぽさが、劇場を体育館に変えていく。苦しくてどうしようもなかった高校時代に戻されてしまう。


 松坂は、沖先生にバスケットを誰にも言わずに辞めたことを謝る。沖先生は松坂に「いいよ」と答える。吉住やとうざが部活を辞めていたとしたら、沖先生は同じように「いいよ」と答えるのだろうか。答えるのかもしれない。将来に直結しない部活は、「そんなもの」でしかないのかもしれない。物語を通して思い出した高校時代はこんなにも苦しいのに、大人になって振り返るとたった3年、しかもその一部でしかない。


 私は、高校3年生の夏を思い出すたびに苦しくなる。いつになったら「よかった」と言えるようになるのだろう。

 私の「青春」 を思い起こさずにはいられなくなる演劇が、ただただつらい。