【感想】舞台『錦田警部はどろぼうがお好き』

 舞台では、第6話「死んだ目の錦田」のエピソードが演じられる。

 死んだ目をした錦田警部が、怪盗ジャックを捕まえようともみ合うシーン。 

原作を読んでいる人ならば、死んだ目をした錦田警部が、次のコマで怪盗ジャックに対してどういう行動を取るのかを知っている。ラブコメの伝統芸、壁ドンである。しかしながら、会場は品川のクラブex。円形ステージにいる死目とジャックの周りには、客席からの視界を妨げる物は何もない。

 けれどこの舞台、演出が天才的なのである。

 ステージの奥から花道を通って、透明のパネルが移動していく。そして、ステージ中央、死目とジャックがあと一歩動いたら衝突してしまうだろうという位置で、パネルはそっと静止する。壁ドンを成立させるために必要不可欠なもの。それは、俺様気質の王子様でも生意気なヒロインでも、ムードでもない。壁である。

 死目は、ジャックの手を掴み、観客全員が予期していた行動を取る。大柄な錦田警部が小柄な怪盗ジャックを壁に押しつけて追い詰める様子はラブコメの一コマにふさわしく、怪盗の犯行現場で怪盗を捕まえるために存在しているはずの警部が、悠長に壁ドンをしているというギャップが面白い。

 そしてこの舞台、演出がすごいのである。

 クラブexは円形のステージであり、円形部分は回転する。怪盗ジャック、死んだ目をした錦田警部、そして錦田警部が怪盗ジャックを縫い止めている“壁”は、壁ドンがしっかりとラブコメ風にキマッたあと、ゆっくりと時間をかけて回転する。

 

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 私は、原作のファンである。タイムラインになんとなく流れてきたことがきっかけで1話を読み、電子書籍を買って読んだ。3巻しかない物語をあっという間に読み尽くした後、すっっっっっっっっっっごく面白かったこの作品を味わい尽くすべく、何度も読み返した。けれど、錦田警部と怪盗ジャック、そして死んだ目をした錦田警部とアンリくんの関係が“何”であるのかは、よくわからなかった。

 ラブコメの文脈で描かれているけれど、錦田警部の挙動は行きすぎたファンのようにも見える。恋愛感情を持っていて、その先を望んでいるようにも見えるけれど、錦田警部はあくまで怪盗を捕まえたいだけなのかもしれないとも思う。アンリくんはバリバリ意識しまくってるようにしか見えないけれど、追うものがいなければ怪盗は成立しないという美学によるものなのかもしれない。いやまあでも、シンプルに「恋愛感情」ってやつなんじゃね? いやでもな・・・・・・。でもそれ両片思いってやつじゃね?? いやでも・・・・・・。私はしばらく考えるのをやめていた。

 

 けいどろの舞台を観た。原作の漫画では2等身にもなるし、目が巨大化してうりゅりゅうと輝いてしまう錦田警部は、成人男性の身体をもってそこにいた。部下に対して指示を飛ばす様子は、普段、大きな声を出す人が身近にいない環境に身を置く私からすると、少し威圧的にも見えた。アンリくんも同じだった。舞台の上には、一人の少年がいた。

 原作からセレクトされたエピソードを生身の人間が演じるのを見ながら、「あ、これ、アンリくんは警部を好きなんだな」って思った。警部はジャックを好きだった。ややこしい関係だけど、根っこにある感情は至ってシンプルなのかもしれなくて、じれったい関係とほわほわした世界観にあったかい気持ちになった。あ~~~~、いいな~~~~~。好きな人がいるというパワーは絶大で、人を想うことは素敵だ。ごちゃごちゃといろいろ考えがちだけれど、観劇し終わったときはふわふわとした気分で楽しさだけが残る。あ~~~~~、人を好きになるっていいな~~~~~~~~。

【感想】おとぎ裁判第二審

友達が廣野くんを好きになっておとぎ裁判も観てくれた。懐かしくなって色々掘り返したら下書きに突っ込まれてたやつを見つけた。

令和の目標は発信なので、インターネットに残しておくことにする。

 

アベルとピートとメロディちゃん

あ~~~~~~~~~テニスのときに碕さんが好きだったんだよな~~~~~~~~~。どこが好きだったのかと聞かれて思い出せることもあんまりないけど、ピートを観ていたらふんわりと「あ~~好きだったな~~~」と思う。なんかね、優しさがにじみ出ている。あんまり深く物事を考えないのかもしれないけど、人に対して優しくて、受け入れる心を持っている。ピートはそういう人に見えた。トンチキな衣装だったけど、衣装を身にまとっている姿だけでは別段面白くみえない事がすごいよね。

 

アベルは、歌っているときは生気がなくて、この世のすべてを恨んでいるような危うさを感じさせる少年なのに、アドリブパートになるとただのくそ生意気なガキだった。いじめられっ子というよりもいじめっ子というほうがふさわしいくらい、手慣れた様子でメロディちゃんを追い詰める。彼の生い立ちには心を痛めずにはいられなくてかわいそうだと思うのに、猟奇的な日替わりネタがめちゃくちゃハマっててバランスがおかしいんだよな~~~~。全員を土下座させてた千秋楽が大好きすぎた。

 

3人が迎えるラストシーンがすごく好きだった。歌ってすごいんだな~って思った。裁判はショーだから、おとぎ裁判ではマイクを持って歌う。それは、トーチや伽たちに最高のパフォーマンスを見せて、聴衆を熱狂させるためだ。けれど、アベルがピートに「幸せってどんなものなの?」と問いかけ、ピートが「不公平は不幸じゃない」と知ってほしいと答えるとき、彼らはマイクを手に持たない。マッドオーディエンスシート(つまり前方席)では、生の声が、そのまま聞こえてくる。それがね~。なんか、飾り気のない素直な気持ちのやりとりを見ているようで、心が震えた。

音楽は、ピートにとってもアベルにとっても呪いをかけるものだと思う。笛の音で人々を他の世界に移動させる笛吹き男は、見方を変えれば死に神だ。アベルの歌は、人の心を惑わせ、死に追いやることすらできる。それでもピートは、「どんな世界にも音楽があるように」人には居場所があるとアベルに伝える。ピートはずっと根無し草で、一人で野垂れ死ぬことを恐れていた人だから、ピートが見つけた「居場所」とはメロディちゃんの隣だったのだろう。音の妖精であるメロディちゃんとピートが惹かれ合ったのは、彼らが音楽という共通項を持っていたからなのかもしれない。

 

ピートはきっと、笛をアベルに渡せば、存在意義がなくなって世界から消えることを知っていた。愛する人を見つけたばかりだというのに、ピートはアベルのために笛を渡す。アベルに未来を授ける。どうすればいいのかわからないとすがるアベルを教え諭して、指針を与える。ずるい。メロディちゃんは優しい人で、アベルの生意気さに手を焼きながらも、ピートと声を合わせて「知ってほしい」と語りかけた。ピートが消える理由のひとつとなったアベルを恨むことをメロディちゃんはしないだろう。消えゆくピートを腕の中に抱いて必死に笑顔を作るメロディちゃんは健気で、美しかった。

 

すっごい照らして!

ルーーーーーーーーーーータスッ!!!!!!めちゃくちゃかっこいい。写真だと「冗談か?」となるビジュアルだけど、伏せられた繊細な白いまつげや小さな顔、整ったパーツ。おとぎ裁判のキャラクターの中では比較的調和の取れた衣装の真ん中に光り輝く「H」のベルト!!ひとたび口を開けば京都弁の嫌味が飛び出し、法廷を横切るだけでその気位の高さが伝わってくる。なのに持ち歌は「すっごいシャイニング!」ってしか言ってないし、暗転できないしスポットライトの中に入れなかったりするからかわいい。

 

ベイベーーーーー!!

「恋をするなら俺にしとけよ」って言われて恋しない女がいる???????

ブルーを失ってしまってどこか張り詰めた雰囲気があったし、ルータスに追い詰められることも多かったロブ様。でもむちゃくちゃかっこよかった~~~!

 

伽とケモノ

アケチ様とジュード様の話はいくらしてもしたりない。無理。

 

おとぎ裁判

ファンタジーの世界観にゲンジツの裁判を持ち込むのは野暮だし、あちらとこちらの裁判は全く別物だ。だけど、健心くんがアフトに来たときに「俺は裁判って大っ嫌いだったんだけど、この作品を見て印象が変わった」と言っていたのが印象的だった。この作品で、ゲンジツの裁判に対して親近感を持つひとがいるかもしれない。それってすごく、すごいことだ。やっぱりフィクションの持つ力は大きいな~って感じた。

おとぎ裁判において、私はトーチだった。物語に不可欠な要素を担えるのが光栄で、カーテンコールでアケチ様が「トーチの諸君、光を灯せ」と言ってくれるのがうれしかった。素敵な作品だったと思う。

 

【感想?】演劇「1999年の夏休みepisode0」

 先日、演劇「1999年の夏休みepisode 0」を観劇した。

1999年の夏休み episode0

【あらすじ】

山と森に囲まれ、世間から隔絶された全寮制の学院に、少女のように美しい少年たちが共同生活をしている。

初夏のある夜、その中の一人、悠が崖から湖に身投げして死んだ…。夏休みになって、帰る所がなく寮に残ったのは三人。自分を愛していた悠の自殺に自責の念にかられている和彦。和彦に対して深い思いやりで接しているリーダー格の直人。そして和彦の悠に対する想いに強い嫉妬を抱いている下級生の則夫。

ある日、悠と瓜二つの転入生・薫が三人の前に現れた。薫の中に悠の面影を見て混乱し動揺する三人。

そして彼らの関係性は奇妙な方向にねじ曲がっていく…。

 人が人を想うこと、思春期の息苦しさ、閉じた人間関係の窮屈さ。客席で身じろぎでもしようものなら空気が壊れてしまうのではないかと思ってしまうくらい繊細な空間で体感した一つの夏は、とても複雑で、どこかおそろしさがあって、そして美しかった。

 

 ひとつ、疑問に感じたことがある。「1999年の夏休み」とタイトルが付けられ、同性同士の関係性が描かれていたこの作品の舞台は、果たして1999年なのだろうか。
 則夫は直人に食事の用意ができたことを知らせる。端末をタッチパネルで操作して送信されたメッセージは、「ピコン」と聞き覚えのある音を立てて直人の手元に届く。直人は、スマートフォンでメッセージを確認して、和彦を朝食の席に連れ出す。母親と通話をするシーンで薫は、 iPhoneの画面を見ながら母親に話しかけ、テレビ通話のような使い方をしている。
 このように、登場人物たちがスマートフォンを利用している描写は、あちこちに見て取れる。1999年の携帯電話の普及率は44%ほどだ。ここで言う「携帯電話」は主にガラパゴス携帯やPHSを指すから、1999年が作品の舞台になっているならば、中学生である則夫や薫、直人が全員スマートフォンを持っているというのは不自然だ。「1999年」とタイトルで作品の時間軸がはっきりと示されている作品において、時代を大きく反映する小道具の選択を誤るとは思えない。そうであるとすれば、「1999年の夏休み」という作品の舞台は、1999年ではなく、""現代"" と考えるべきではないか。
 1999年と今とでは、社会が大きく変化している。
 スマートフォンどころか携帯電話すら今のようには普及していなかった1999年、少年達は、寮生活を始めてしまえば、外部との連絡手段がほとんど無くなってしまったはずだ。今ならSNSで外とつながりを持ち続けることができるが、携帯電話もなく街にも許可がなければ下りられないとなると、少年達の世界は彼らと少しの大人だけで完結する。1999年がこの作品の舞台であれば、私は、閉じた世界の息苦しさと多感な思春期の息苦しさが彼らを「倒錯的な関係に走らせた」のだと解釈したかもしれない。
 2020年現在。インターネットの発展によって、どこにいても情報を得ることが可能になった。自分から求めさえすれば、異なる世代や立場の人の意見に触れることもできる。変化したのは情報へのアクセスの難易度だけではない。セクシャリティに関する考え方も大きく変わってきている。同性愛と異性愛には何の違いもないという認識が広く共有されるようになった。2015年には日本で初めてパートナーシップ制度が採用され、同性同士でも人生を共に歩む道が生まれつつある街もある。

法は未だに、同性婚に対して異性婚と同等の権利を認めていない。変えなければならないことは山ほどある。まだまだ世間には誤解が根強く残っているだろうし、私も不勉強で、気付かぬうちに誰かを差別しているかもしれない。それでも、今の私は、異性愛と違った関係が描かれていたことだけを取り出して「倒錯的だ」と表現しようとは思わない。この作品で描かれていたのは人間同士の普遍的な「愛」だ。
 「1999年の夏休み」。20年以上昔の話のはずなのに古くささを全く感じなかった。それは、この作品が普遍的な価値観を描いているからなのでであろうし、この作品に取り組んだ座組が、現代的な感覚でもって作品作りに取り組んでいたからなのだろう。面白かった。

【感想】ミュージカル「アルジャーノンに花束を」

 冒頭、たどたどしく言葉を紡ぎ、おぼつかない足取りで子供みたいな格好をしてあどけない表情を浮かべているチャーリィは、汚れを知らない無垢な存在にみえた。私が彼に対して抱いた印象は、矢田さんの大きなキラキラとした瞳や天使のような柔らかさのある笑み、清潔感のある透き通った容姿が影響していることを自覚していた。うつくしい容姿をしているから、チャーリィに好感を抱いた。それでいいのだろうか。うつくしさに心を奪われていることに気付かないふりをして、チャーリィという人間を捉えて感想を述べることが“正しい”のだろうか。もっと踏み込んで言うならば、子供のような格好をして子供のように無邪気に笑う32歳の肉体を持つ男性が、ありふれた容姿であったなら。私は、チャーリィに心を寄せて物語を追うことができただろうか。肉体の年齢にそぐわない表情を浮かべて、要領を得ない話し方をするチャ-リィのことを知りたいと思っただろうか。

 

 知能が低かったチャーリィは、周囲に不満を持つことなく、自分で居場所を作ってニコニコと笑っていた。“友達”に馬鹿にされて笑われていても、彼はそれに気がつかなかった。

 実験によって知能の向上が始まったとき、「不満を持つことができる!」と、喜色にあふれた声色で告げるバードが印象的だった。醜い感情だとカテゴライズされがちな不満や苛立ち、焦りや葛藤は、一定程度の知能が無ければ感じることすらできない。天真爛漫で無垢なチャーリィは、苛立ちを表に出さない成熟した人格を有しているわけではなく、そう在ることしかできないのだ。

 子供の頃、小説を読んでいたとき。そんなことには思い至りもしなかった。知性を獲得して疎んじられるチャーリィに、世の中の不条理を感じた。正しいことを言っているはずなのに、世間は論理的に“正しい”選択ができない人が多いから、チャーリィの知性が軽んじられてしまうのだ、と。私は傲慢で潔癖な子供だった。過去の自分を俯瞰的にみられるようになったのは、私が世間にもまれてきたからで、チャーリィがごく短い期間で知ってしまった世間の真実を、時間をかけてゆっくりと飲み込んできたからだった。

 情緒を育てる時間を育てられなかったチャーリィを取り巻く状況は悲劇だ。高い知性は、鋭い観察力と分析力を彼に与えてしまう。チャーリィは深い洞察によって知った人間の醜さを、子供のような柔らかい心で受け止めなければならない。チャーリィの外見は32歳の成人男性で、論理的な話し方をする彼を前にしたほとんどの人は、彼の情緒もまた成人男性と同等に成熟していると思うはずだ。

 チャーリィの実験は、悲劇的な結末を迎えたと感じる人が多いだろう。短期間に知性が飛躍的に上昇した彼は、周囲と不和を起こして孤独を抱えた。世界中のあらゆる論文を精読した彼が、実験の行方について悟ってしまった瞬間のいたたまれなさは深く心に残っている。けれど、と思うのだ。けれど、彼は、自分の人生について考える道具を得た。終わりに向けて、何をすべきかを考えることができた。それは、とても小さなものではあるが、救いなのではないか。

 子供の頃に読んだ小説と、社会に出てしばらくが経った今観たお芝居では、受け取るものが大きく変わった。それは、私が大人になったからでもあるが、劇場で、チャーリィの半生を演じた矢田さんをこの目で観て、チャーリィが人間であると実感したこともきっと大きい。

 学生のときに感想文を書かされていたら、「障害者であっても人間に変わりは無いから、優しさを持って接したい。」というようなことを書いたと思う。けれど今、そう書くことには躊躇いがある。その優しさは、哀れみや同情にすぎないのではないか。人を一人の人間として尊重するにはどうしたらよいのだろう。千秋楽の日からずっと考え続けている。

 

【感想】要、不急、無意味(フィクション)

 ここのところは概ね家にいる。SNSで流れてくるメッセージは、現状への不満、啓蒙、批判、擁護、日常で、少し前とは様変わりした。抑圧されて、停滞しているのを感じる。そんな風潮になってしまった世の中では、誰かと通話をつないで無意味な話に興じることのありがたさが増した。

 

 スカイプの通話ではやりのオンライン飲み会をしている4人の男性が繰り広げる会話には既視感がある。たった2枚のマスクを配る政策を「そんなの意味ないじゃんwww」と批判して、他の政策もぱっとしないと愚痴を言い合う。会話の内容も、取り上げられる事柄も、私が日ごろ触れる意見とほとんど変わらなくて驚く。たぶん給付金支給の要件を満たさないだろうという会話は、私もつい先日したばかりだ。

 画面の中の1年後、比較的自由のある自粛はディストピアに変貌する。夜に電気をつけることはできず、食料は配給制になる。髪を切りに行くにも通話をするにも許可証が必要になり、許可証を持たないまま通話していることがばれれば近隣住民に通報されてしまうかもしれない。

 作品の冒頭でスカイプで飲み会をすることに対して戸惑いがちな雰囲気を漂わせた4人は、1年後、手慣れた様子で真っ暗な部屋の中から配信を繋ぐ。

 「改憲されて人権がなくなった」という台詞が印象的だった。未曽有のウィルスの混乱に乗じて、今当たり前に有している人権すら制限するような憲法が成立してしまうかもしれない。まだ自粛が緩かった頃にマスク政策擁護派からクソリプをもらった秋元(役名)の言葉を思い出す。現在、現実では、小さな声だとしても声に出すことが大切だと思っている人たちがたくさんいる。現実でたくさんいるということは、この現状がある程度投影されて作られたフィクションの中でもたくさんいたのだろう。それでも憲法改正が成立してしまう。

 ぞっとするような世界は、想像しているよりも近くにある。コロナウィルスが存在する前に触れたディストピア作品と、今触れる現実への近さが違う。「これは遠い話の世界ではない」という感覚にぞっとする。マスクを批判するのと同じようなテンションで、スカイプで、外出許可証の発券が受けられないことを愚痴る未来が来たらどうしよう。政府批判にラインは使えない。政府に監視されているのだから…。

 

〈加藤拓也 コメント〉

 

いわゆる演劇の中継や過去作品の配信ではなく、配信の特性をそのまま作品と上演に持ちこんで、それの、配信や生放送ドラマとの違いを体験しながら、演劇の性質は一体どこに担保されて、どこに求めているのか、インターネットをクローズドにして、今この環境の中、この機会に改めて自分の中で検討してみたいと思います。

インターネット公演『要、不急、無意味(フィクション)』 | 劇団た組 HP


 スカイプで上演される演劇に初めて参加した。

 スカイプという機能ありきで作られた演劇であるところに特質があるのかなって感じたけど、難しいことはよくわからない。

 

「家で演劇を観る」という心許なさについて。|山野 靖博(ぷりっつさん)|note

 このノートにも書いてある感覚が私にもあって、家の中で舞台の映像を観ることがどうしても苦手だ。いつでも観られるなら今じゃなくてもいいと思ってしまうし、巻き戻しや早送りが出来る媒体を使うとどこかに油断があって、2時間を集中しきることができない。登場人物の人物像をなじませるようなぼんやりとした会話が続くシーンでは、ついスマホに手が伸びてしまう。

 スカイプ公演は、その時に観れるものが全てだ。録画はできないし、見返すこともできない。4分割された画面のどこに注目するかは観客に委ねられている。6回ある公演はすべてリアルタイムで演じられているから、細部まで一致するお芝居は二度と観られない。それは、劇場で観る演劇と似ているように思う。

 あとはやっぱりスカイプが怖いね~~~。操作ミスでうっかり私の顔と声が配信されてお芝居をぶっこわしてしまうんじゃないかって緊張感があって気が抜けなかった。

 オンライン飲み会ってどれだけ世間に浸透しているんだろう。この時世を反映した作品だけじゃなくて、恋愛とか友情とかをテーマにした作品もスカイプ配信形式で作れてしまうのかな。今の私は全然想像できないけれど、もう少ししたらオンライン飲み会の「あるある」ネタも蓄積されて、多くの人に共有されるようになっていくんだろうか。

 社会の変わり目に立っているような漠然とした不安を駆り立てられる作品だった。

【ひたすら自分語り】貴方なら生き残れるわ

 

 部活を引退してから、10年が経とうとしている。記憶は風化し、多くの出来事は忘れたことにすら気付かない。それでも、ユーチューブで配信されていたこの作品を見終わったとき、あの日のことが鮮明に、舞台を観るような感覚で、目の前に蘇ってきた。どれだけ時間が経っても「いい思い出」 として宝箱の中に納められない日々が突き刺さって苦しい。「 貴方なら生き残れるわ」は、私にとってそういう作品だった。

 

 部活というものに対する思い入れが深すぎて、フラットな気持ちで作品を見ることができなかったので、私の学生時代の話をしたいと思う。

 中学1年生の時に入部した吹奏楽部は、全国大会を目指していて、実際に、3年に一回くらいは全国に行ける程度の実力を有していた。

 練習は厳しかった。基礎も十分に習得していない楽器を抱えて合奏に参加すると、私のミスで50人の演奏が止まる。私にはわからない数ヘルツのブレを指摘され、直るまで同じ音を鳴らさせられた。顧問にも、外部のコーチにも、先輩にもたくさん怒られた。私語ひとつ許されないような緊迫した時間が流れる部活は苦痛だった。それでも、日が経つにつれて、音楽に立体感が生まれ、音が弾み出す。残響がふんわりと音楽室の中に残るのがわかるようになった。 楽しかった。練習を重ねるだけ洗練されていく。 音の調和が感じられるようになっていく。 苦しい練習を続けてようやく一体感を味わえるようになったときの感情が、私にとっての「部活の楽しさ」だった。

 私が進学した高校の吹奏楽部は、県大会をギリギリ突破できないレベルで、普段の練習は生徒の自主性に任せられていた。

 高校3年生になった。私たちの学年は楽器が下手くそだった。地区大会を抜けられるかも怪しい。

 吹奏楽部は、楽器ごとにパート分けされ、空き教室で練習をする。どの楽器がどのような練習をしているのかを管理しているわけではなかったが、漏れ聞こえてくる音から他の楽器の練習の雰囲気を察することができた。部活動中、 校舎の一番端の教室を割り当てられた私の元に届いてくる音は明らかに少ない。いくつかのパートは練習をしていなかった。合奏になれば練習不足が顕著に現れる。指揮者からどれだけ厳しい指摘を受けても、普段の練習でトランペットの音が聞こえてくることはなかった。廊下には笑い声が響く。

 私はずっと不思議だった。必死にならない部活は何が楽しいのだろう。練習をしなければ上達しない。上達しなければ音楽が美しく響く瞬間の感動を知ることができない 。大会の出場を目指している部活に入部したのに、練習時間の大半を雑談に費やして何になるんだろう。


 私は、吉住になりたかったのだ。

 プレーで誰からも一目置かれ、吉住が熱くなると、 周りもその熱に浮かされたように練習に励む。 2回戦の最後の最後まで、チームは諦めない。

 私は、そういう存在になれなかった。楽器はそれほどうまくなかった。知識があるだけで音楽性はなかった。人前に立って練習メニューの必要性を説明することはできたけれど、人望はなかった。赴任してきたばかりの顧問との信頼関係は築けなかった。仲間と雑談しながらじゃれあうことも殆ど無かった。

 バスケ部員がだらだらと費やす時間は尊くみえた。社会に出て、業務に追われる毎日を過ごしていると、仲間と目的を持たずに過ごす時間がどれほど貴重だったかがよくわかる。軽口をたたきながら練習をして、部員同士でじゃれあって、顧問の先生も仲間の一員でらそういう時間。ここに来れば楽しいと思えるような誰かの居場所は、そういうコミュニティを作ることが難しいと知った今では眩しく見える。

 高校生の私は、部員が無為に過ごす時間を少しでも減らしたかった。理想は共有されていなかった。部員を鼓舞しようと熱量を示し続けようとしている隣で、醒めた目をしていた部員がいたのを知っていた。私と、私に賛同してくれた少ない部員が理想とした部活動を目指す過程で、誰かの居場所を奪ったのかもしれなかった。野球部員たちのように誰かを追い詰めていたかもしれない。今更気付いた可能性が痛い。


 バスケ部の練習と試合を観ていると、高校生の自分に引き戻される。廊下でわいわいと騒ぎながら体育館に向かうバスケ部とすれ違うとき、目を合わせないように俯く私が目に浮かぶ。コンビニのまえに屯してる集団を見て、私はきっと買い食いを諦めるのだ。

 あの時、近くにあって遠くに感じていたバスケットボール部が舞台の上にいた。どこにでもいそうな男子高校生の会話と練習風景が、今の私が物語を俯瞰して楽しむことを妨げる。バスケットボールがゴールから外れることもある生っぽさが、劇場を体育館に変えていく。苦しくてどうしようもなかった高校時代に戻されてしまう。


 松坂は、沖先生にバスケットを誰にも言わずに辞めたことを謝る。沖先生は松坂に「いいよ」と答える。吉住やとうざが部活を辞めていたとしたら、沖先生は同じように「いいよ」と答えるのだろうか。答えるのかもしれない。将来に直結しない部活は、「そんなもの」でしかないのかもしれない。物語を通して思い出した高校時代はこんなにも苦しいのに、大人になって振り返るとたった3年、しかもその一部でしかない。


 私は、高校3年生の夏を思い出すたびに苦しくなる。いつになったら「よかった」と言えるようになるのだろう。

 私の「青春」 を思い起こさずにはいられなくなる演劇が、ただただつらい。

Don't stop strip!

 そういったことに疎く、新宿歌舞伎町には寄りつかない生活をしていた私が「ストリップ」という言葉に対して持っていたイメージは、あはん、うふんの世界だった。きれいな踊り子さんたちが服に手を掛け、一枚一枚ゆっくりと脱いでいく世界。それを見ている人々は、肌の露出が増える度に歓声を上げて喜ぶ--。
 「ストリップ学園」と銘打たれた公演のメインビジュアルが出たとき、胸元まできっちりと締まった制服を纏いこちらを見つめる女子高校生役とおぼしき男性の写真を見て、そのイメージはより強固なものになった。舞台を見て嫌悪感を抱いてしまったらどうしよう、と思った。下ネタに全く耐性がないというわけではないが、女性を売り物にするようなストーリーを肯定的に描かれたらしんどくなってしまう。
 ストリップに対する印象が変わったのは、公演前のオールナイトイベントのときのことだ。出演者が「さっきストリップに行ってきた」と熱量高く語っていて、ぎょっとした。私はストリップを風俗だと思っていたから、女性ファンが多いであろう役者さんたちが、客席にたくさんの女性がいる会場でストリップに行ったと口にするとは思わなかったのだ。芸術的だった、アートだと思った、気合いが入った。ストリップを見たという皆さんの口から発せられる言葉は浮ついていなくて、熱があった。なんか思ってたのと違うかもしれない。みんなが言っていた「アートだ」という感覚を私も共有できたら楽しいかもしれない。オールナイト明けの熱に浮かされて、ストリップに行ってみることを決めた。
 
 ストリップを見てからは、ストリップ学園の公演が待ち遠しくて仕方がなくなった。絶対すごいものが見られる。きっとこの期待は裏切られることはない。予めストリップがどんなものなのかを知っておいたから、驚くことは少ないだろう。
 幕が開いて、そんな心構えは無意味だったことを知った。ん?????と思っているうちに、踊り子さんたちが会場の出口に並んで「こちらでーす」と手招きしている。たくさん笑った記憶はあった。印象的なシーンも覚えている。けれど、何がどうつながっているのかがよく分からないままで、なんかすっごいという感覚だけを胸に劇場を出た。手に持っていた紙テープやおチップをどこまで使っていいのかも分からなかった。観劇中に、持ち込みOKと言われていた布物をハンケチのように膝に置いておくのも気恥ずかしかった。「非常識」に置いて行かれたような気がしたのが悔しくて、次はぜったいに振り切ってやると決めた。
 公演日が重なっていき空間に慣れてくると、客席でパンティを振り回して、紙テープを投げて、おチップをねじ込んで、大笑いするのが、信じられないくらい楽しくなった。
 最後のシーン、汗だくになりながらストリップをしてはしゃぐ女の子たちと一緒に、思いっきり、時にはリズムから外れながら手を叩いているうちに、ぐっと体温が上がる気がした。縦横無尽に駆け回って叫ぶ踊り子さんたちからエネルギーが分け与えられるような感覚があって、会場を出るといつも身体がぽかぽかした。汗が滝のように流れる踊り子さんたちの肌が照明に照らされて輝いて、その姿を見る度に生きている人間の美しさを感じた。嫌なこともいろいろある毎日だったけど、「よっしゃやるぞ」と笑い飛ばせてしまうような元気をもらえた。
 新宿歌舞伎町ハダカ座は、どんな言葉も陳腐になるくらいすっごい場所だ。もう一度あそこで、布物をぶん回して現地通貨を扇のように掲げながら、美しくも妖しく力強いストリップにかぶりつける日を楽しみにしていた。

 Don't stop strip!
 また絶対あの場所で、常識を脱ぎ捨てて熱狂したい。その日まで、「ストリップ学園って最高の作品なんだよ」って騒ぎながら、手洗いうがいをして待っていようと思う。